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フロカリ / あなたを祝う

 楽しいことが好きだ。宴もパーティーも祭りもなんでも、誰かが楽しんで喜んでいる姿を見るのが好きだ。
 誰かが楽しければ自分も楽しくなるし、誰かが喜んでいると自分も嬉しくなる。だからカリムは宴や祭り、祝い事なんかが大好きだ。
 そしてまさに祝い事を目前に控えたある日、カリムは自室でうんうんと唸っていた。
 目の前にはカリムにとって身近な熱砂の国特有の打楽器と弦楽器がそれぞれ包装されている。特別にターコイズブルーに染め上げられたそれらは、あと数日で誕生日を迎える、双子の人魚のフロイドとジェイドに贈る予定のものだ。
 誕生日には、相手に思い切り喜んでもらえるものを贈りたい。それも、好いた相手だったらなおさらである。つ、と指先で打楽器が包まれている包装を撫でながら悩む。
 相手は自分と同じで音楽や踊りが好きで、特にドラムを好むようだった。だからつい、カリムの得意な熱砂の国の打楽器を用意した。
 こう言うと弦楽器の方はついでのように感じられるが、ちゃんと得意な楽器を聞いて用意したものである。こちらもしっかり真心がこもっているのは間違いない。ただ、もう片方にはちょっとした下心もあるだけで。
「フロイド、喜んでくれるかな……」
 豪奢な絨毯に転がって、喜んでくれると良いなと願う。きっとたくさんの人からプレゼントをもらうだろう。その中でも一番に喜んでほしいと思ってしまうのは、酷いワガママだ。
 何度か頭の中で喜んでくれる姿を想像してみるが、うまく思い浮かべることができなかった。なんと言っても渡す相手はどちらも一筋縄では行かない相手で、どんな反応でもありえそうだと思えてしまう。
 カリムにとっては二人とも間違いなく良い人ではあるが、万人にはそうではないらしいので、プレゼントを嫌がられたりしないだろうかと心配になる。
 せめて表面上だけでも喜んでくれれば良い。カリムにしては珍しく、ハードルを下げて心の準備をする。時に押し付けがましい善意や好意も、今は鳴りを潜めた。恋とはどんな人間でも臆病にさせてしまうようだ。
 嫌な想像は頭を振って追い出して、とにかく二人が喜んでくれると嬉しいと思い直す。
 魔法の絨毯を呼び寄せて、当日はこの二つを乗せていくから頼むぞと言えば、絨毯は胸を張るようにしてみせた。
 今からどきどきと早まる心臓を胸の上から抑えて、カリムは今日はもう寝ようと起き上がり、一人で眠るには広すぎるベッドへと移動した。

 そうして訪れた双子の誕生日。カリムは先日、言ったとおりに魔法の絨毯にフロイドとジェイドそれぞれへのプレゼントを乗せて二人のもとへと向かおうとしていた。
 きっと寮の談話室で盛大にパーティーをしているに違いないと勇んでオクタヴィネル寮へとやってきたが、中から聞こえる楽しそうな声になぜだか尻込みしてしまう。
 いつもなら真っ先にその中に駆け込んで、自分も混ざってしまうカリムにとってはありえないことだ。
 けれど、楽しそうな声の中心にいるのが自分の好きな相手だと思うと、なんだか複雑な気持ちになってしまうのだ。好きな相手が楽しんでいる姿を見て複雑になるなんて、あまりにも失礼だろう。
 くいくいと絨毯が行かないのかと房で器用にカリムの寮服を引っ張るが、カリムの足はなかなか動かない。
 どうしよう、と考えていたその時だった。
「おや、カリムさんではありませんか。どうしたんです? こんなところで」
 今日の主役の一人であるジェイドがやってきた。普段は見ない白いジャケットがよく似合っている。カリムは一瞬その姿に見とれて、きっともう一人の主役であるフロイドも格好いいのだろうと意識を飛ばしかけて慌てた。
「ジェイド、誕生日おめでとう! これはオレからのプレゼントだ!」
 気を取り直してそう言って、弦楽器の方をジェイドへ渡す。かさりと少し包装と解いて中を確認したジェイドは少し驚いた顔をしたあとに、嬉しそうに「ありがとうございます」と言ってくれた。そのことにホッと安心する。
 そこでカリムは思いつく。フロイドへのプレゼントをジェイドから渡してもらおうと。
「なぁジェイド、悪いんだけど」
「ふふ、お断りします」
「お、オレはまだなにも言ってないぞ!?」
 フロイドにこれを、と絨毯の上のプレゼントを差しだそうとする前に、ジェイドに断られてしまった。
 楽しげに笑うジェイドは大事そうにカリムからのプレゼントを抱えつつ、魔法の絨毯の上を見つめる。
「それはカリムさんから直接、フロイドに渡してあげてください。僕から渡せばきっとフロイドの期限を損ねてしまいます」
 カリムの言いたかったことを当てられ、うぐ、と言葉が詰まる。カリムから直接渡さなければフロイドの期限が損なうというが、本当にそうだろうか? 自信なくジェイドを見上げると、大丈夫ですよと微笑んでくれた。
 その笑顔に背中を押され、カリムはジェイドと共に談話室へ向かう。
 談話室へと足を踏み入れると、すぐにフロイドと目があった。
「あー! ラッコちゃんおっそいじゃーん! あともうちょっとで迎えに行こうかと思ってた、ってジェイドの持ってるのってラッコちゃんからのプレゼント? 先にもらってんのズリー!」
「ふふふ、すみません。先程そこで会った時に頂いたんです」
 フロイドのぶんもありますから、とジェイドに背中を物理的に押されてフロイドを囲む輪の中心に行く。
「え、っと、フロイド、誕生日おめでとう。これ、オレからのプレゼントだ。喜んでもらえれば良いんだけど……」
 絨毯からそっと持ち上げたプレゼントを遠慮がちにフロイドに渡す。ジェイドに渡したときとは正反対だ。
 フロイドはそんなこと気にせずにひょいとプレゼントを受け取ると、その場でばりばりと包装を破いた。中から現れたターコイズブルーの打楽器に瞳を輝かせる。
「すっげーじゃん、熱砂の国の太鼓? あは、色がオレとジェイドの髪とお揃いとか洒落てんじゃん!」
 嬉しそうにいろんな角度から眺めるフロイドの様子に、喜んでもらえたとカリムも嬉しくなる。
 叩き方教えてよとねだって来るフロイドの隣に座って、渡したプレゼントを最初に使ってみせることになったことには気にせず、カリムは演奏してみせるのだった。

「あー、楽しかった。陸でのパーティーのが楽しいねぇ、ジェイド」
 上機嫌にたくさんのプレゼントを見つめるフロイド。一番目立つのは、やはり己たちの髪と同じ色をした楽器だ。
 それを見つめるフロイドの眦が下がる。
「そうですね、フロイド。良かったですね、カリムさんから直接プレゼントをいただけて」
「ほんと良かったぁ。ジェイドでしょ、ラッコちゃん連れてきてくれたの」
「ええ、危うく僕がフロイド宛のプレゼントを変わりに受け取るところでしたよ」
「うげぇ、そーしてたら絶対ぇ受け取んねぇから」
 げぇ、と舌を出してみせるフロイドに、くすくすとジェイドは笑ってみせる。意地悪は良くないですよ、と嗜めることは忘れない。
「早くラッコちゃん告ってくんねぇかなぁ。じゃないとオレそろそろ我慢できないんだけど」
「そう言うんでしたらフロイドからカリムさんに告白すればいいのに、なぜしないんです?」
 ジェイドもフロイドも、カリムの気持ちを知っている。そしてフロイドもカリムのことを同じように好いている。
 両想いであるのならばとっとと気持ちを告げればいいのに。そう問えば、返ってきた答えはフロイドらしいものだった。
「そんなのオレの言うことにいちいち反応してるラッコちゃんが可愛いからに決まってんじゃん!」
 でも本気で我慢できねぇなーとぼやく相棒に、ジェイドは仕方ないですね、と苦笑をこぼした。畳む
    
フロカリ / 水辺の魔物

 見上げるほど背の高い本棚がたくさん並ぶ場所。いわゆる図書館と呼ばれるそこにカリムはいた。
 普段の彼とは縁のないこの場になぜいるのかと言うと、単純に授業の課題のためだった。
 最初は至って普通に課題に使う本を探していたのだが、気がつけば課題とは全く関わりのない棚の隙間に入り、そこにあった一冊の本を手にとっていた。
 本は水の妖の物語だった。
 本来であれば心を持たない水の妖が、人間の男に恋することによって心を手にすること。その男のもとへと嫁ぎ、幸せになること。しかし、男が他の女に恋をし、妖を疎んでしまうこと。
 最後には愛した男の瞳に己の涙を落とし、永遠の眠りにつかせるまでが描かれていた。
 カリムは本を読むことが苦手だが、この話はなぜだかとてもこの妖に感情移入をしてしまったからか、鮮やかに物語を頭の中で思い描くことができた。
 おかげで本を抱いてぼろぼろと泣くはめになっているのだが。
 ぎゅうぎゅうと辛い気持ちが心臓を締め付けるようだった。水の妖にとって一度きりの恋、その恋が叶ったときはどれだけ嬉しかっただろう。
 そしてその恋が失われてしまったとき、どれだけ哀しかっただろう。本を読んでいただけのカリムでこうなのだから、実際にはどれだけのことなんだろうか。
 知り合いに水の妖はいない。そもそも、水の妖は妖精族の類いなのだろうか、そこのところは詳しく書かれてはいなかったけれど。
 とにかく何よりもカリムが苦しかったのは、妖が最後に愛した人を己の涙で殺さなければならなかったことだ。
 そうしなければいけない決まりで、運命だったとしても、ただ一人愛した相手を殺さないといけないだなんて残酷すぎる。
 妖に心がないままだったなら良かっただろうが、そもそも男を愛さなければ心なんて生まれなかった。男が他の人に目移りなんてしなければよかったのに。そうすれば二人は幸せになりました、めでたしめでたし。なんて、ご都合主義にまみれたお伽噺だと言われようとも、カリムはその方が好きだった。
 タイトルになんとなく心惹かれて読んでみてしまったが、読まなければよかったかもしれないと今更ながら後悔する。
 途中で読むのをやめてしまえばよかったのだ。普段は本なんて読まないのだから。
 けれどこれは、何故か読んでしまった。水の妖、なんて。なんとなく己の恋人のことを思い浮かべてしまったがゆえに。
 もしもだ。カリムの恋人が自分以外を好きになってしまった場合、カリムはどうするだろうと考えた。
 きっと笑顔で相手を祝福して、相手とその好きな人の幸せの門出を祝うだろう。何なら宴を開いたりもするかもしれない。
 痛い痛いと嘆く自分の心に蓋をして。
 だってそれは何れ来る痛みだ。いつまでも幸せな恋人同士でいられるわけがない。カリムは自分の立場を理解している。
 相手も相当の気分屋であることを知っている。だからいつかの覚悟しておかなければならない。ああ、それでも。

 一瞬でも、己の涙で相手を殺せたら、と。相手の涙で己に死を、と。願ってしまった自分が、ひどく憎らしい。

「ラッコちゃん? なぁに泣いてんの?」
「ふっ、フロイド……っ!?」
 抱きしめていた本を握る手に力が入った。涙でボロボロの顔を上げると、不思議そうにしている恋人がそこにいた。
 慌てて本を隠そうとするが、その前に気付かれる。どうも彼も読んだことがあるらしく、「ああ、その本」と呟いた。
「人間てほんと面白いのもの書くよねぇ。人間以外の種族に夢見すぎぃ」
「お、面白かったのか? フロイドは」
 カリムの腕から本を取り上げて、ぱらぱらと頁を捲るフロイドはまぁねと一度頷くだけだ。それ以上の感想はない。カリムは本を取り返そうと手を伸ばす。
「まぁ、でもね」
 伸ばした指先が掴まれる。そのまま、ずい、と顔が寄せられる。
「ラッコちゃんの心配してることは絶対におこんないよ」
 人魚の恋は苛烈で一途なのだとからりと笑うフロイドに、カリムはぽかんと口を開けた。
 それはどういう意味だろうか。頭が働かないカリムの代わりに、フロイドは本を書架に戻した。そして別の本をカリムにぽんと渡す。
「はいこれ、課題に使う本。ちゃっちゃと課題終わらせて遊ぼぉ」
「ぅえ、うん、ああ、わかった?」
 いつの間にやらカリムの涙は止まってて、歩みだすフロイドの後に大人しくついていく。

 残された何も言わない本達に向かって、フロイドはちらりと目線だけで振り返り、にやりと笑んで見せた。畳む
    
フロカリ / 涙の理由

「なぁ、頼むよフロイド!」
 そう言って両手を合わせ、深く頭を下げるカリムに、フロイドは嫌そうな顔をした。
「やだよ、ラッコちゃんが悪いんじゃん」
「う、それはそうなんだけど……」
 気まずそうに呻くカリムは、しょんぼりと効果音が付きそうに眉を下げる。
 カリムが何をフロイドに頼んでいるのかと言うと、明日の錬金術の授業で使う「人魚の涙」が欲しいのだ。
 準備するのを忘れて、急いで購買部に向かったものの、同じ目的の生徒に先を越されたのか品切れていたらしい。
 そこで知り合いの人魚に頼んでいるのだとか。事前にジェイドにも頼んですでに断られているらしく、もう頼れるのがフロイドしかいないんだとカリムは嘆く。
 フロイドは今も面の皮厚く従者をやっているウミヘビくんに頼めばすぐに用意してくれるだろうに、と内心で思ったものの、口にはしない。
 冬のホリデー以来、なるべく従者を頼ろうとしないカリムの姿を見ているからか、そんなことを言う気にはなれなかった。それに、お気に入りの子が他の人間を頼らないというのは気分が良い。
 かと言ってそんな授業の材料のためになんて安い理由で涙を流してやる理由はない、適当に流してどこかに行かせようとしたところで、ふと思いつく。
「じゃあさぁ、ラッコちゃんオレのこと泣かせてみてよ。そしたら涙あげるから」
 ニヤニヤと意地悪く笑ってみせるとカリムは驚いた顔を見せた後に、嬉しそうに「本当か?!」と顔を輝かせた。
 フロイドは鷹揚に頷いてみせるが、どうせできっこないと思っている。イイコのカリムがフロイドを泣かすことなんて到底無理な話だ。
 カリムは早速何か思いついたようで、フロイドに手を伸ばしてきた。フロイドのことを擽って、その涙を採ろうとでもしているんだろうと察し、カリムの手から逃げる。
 そのまま逃げ続けるとカリムは困った顔をして、この作戦は諦めたようだ。
 じゃあ次にとばかりにこの間あったカリム曰く怖い話、をし始めた。恐怖で涙を流すような人間、もとい、人魚と思われているのだろうか。
 カリムの話は結局、怖い話どころかフロイドにとっては面白い話でしかなく、口を開けて大きく笑ったほどだった。それでも涙は出なかったけど。
「うーん、じゃあ、もしもオレが死んで、ゴーストになってフロイドに会いに行ったら、フロイドは泣いてくれるか?」
「なぁにぃラッコちゃん、死ぬ予定でもあんの?」
「ないぜ! だから、もしもの話だ!」
「そういうもしもの話も駄目〜。それにラッコちゃんが死ぬとか思いつかないし、多分オレ泣かないよ」
「そっかぁ……いや、もしもでもオレが死んで、フロイドが悲しんでくれたら少し嬉しいなって……悲しんでもらえるのが嬉しいなんて酷いよな。ははは、ごめん。諦めるよ」
 明日は先生に素直に怒られることにすると肩を下げたカリムが去っていく。その姿に手をひらひらと振ってを見送った。
 その夜のことだ。


 フロイドは寮の自室で雑誌を読んでいた。新作のスニーカーの広告が載っていて、次の休みにでも買いに行こうかとページの端を折っていたときだ。
 同室のジェイドは山でキャンプをすると言って一人きりの夜だった。
 こんこんと窓が外から叩かれる音がした。扉でもなく窓から。不思議に思って窓の外を見ると、そこには昼に見た顔があった。
「ラッコちゃんじゃん、なんで窓の外から来てんの?」
 ここは一階ではないはずだ。わざわざ登って来たのかと思えばそうではなかった。
「よっ、フロイド。挨拶に来たぜ」
「はぁ? なんでわざわざ挨拶……?」
「ほら、言ったとおり会いに来たんだ」
 カリムの姿を透けて向こう側が見える。思わず手を伸ばせば、褐色の肌に触れることなくフロイドの手は宙を掻いた。
「は……? なにこれ、どういうこと?」
「言っただろ? オレが死んで、ゴーストになったらフロイドに会いに行くって」
 それは昼間のもしもの話だ。現実の話ではない。……現実の話ではない、はずだ。
「それ、昼間の話でしょ? それじゃなに、ラッコちゃん死んじゃったの?」
「ああ、そうみたいだな」
 そうみたいだな、なんて。なんとも軽く言うカリムに、フロイドは言葉を失う。自分が死んだというのになんと呑気なものだ。
「寮に刺客がいたみたいでな、学園は安全だと思ってたから気付かなかった。ははは」
 更に笑ってのけるなんて、おかしいのではないか。更に、後でアズールから知らせが来るんじゃないか、とまで他人事のように言う。
「笑えないジョーダン、やめなよラッコちゃん。似合わないよ」
「冗談なんかじゃないぜ。だってほら、オレはこうしてここにいるだろ?」
 いつものように笑うカリムの瞳は、いつもと違ってきらきらと輝かない。血の通っていない褐色の肌は死人のそれだ。冗談ではなく、ここにいるカリムはゴーストなのだと実感させられる。
「それじゃあフロイド、オレもう行くからさ! じゃあな!」
 死人とは思えない元気さで――とはいえ、この学園にいるゴーストはみんな同じようなものだが――カリムはフロイドの前から去ろうとする。
 フロイドは慌ててそれを止めた。止めなければならないと、思ったからだ。
「どこ行くのラッコちゃん」
「どこって、死んだら行くところは決まってるだろ?」
 カリムが言わんとすることはなんとなく理解した。それはもう、二度とカリムとは会えなくなるということだ。咄嗟に掴めるはずのない手を掴んだ。掴んだふりをした。
「行かなくていいじゃん。他のゴーストみたいに学校に……そうだ、オレに憑いちゃいなよ。そしたら毎日楽しいかもよ」
「それはフロイドに悪いだろ? それにオレは、」
 この世に未練なんてないからな。
 と。からりと笑うカリムに、フロイドは今度こそ何も言えなくなった。
 きっと今、この場にカリムがいるのは、昼間に言ったことを実行しただけに過ぎない。
 それがなかったら、カリムは何も言わずに遠くへ行ってしまったのかと思ったら、心臓が止まってしまうかと思った。
 未練がない? 自分では未練になりえない。そうカリムは言ったのだ。
「嫌だ、嫌だよラッコちゃん。行かないでよ、ラッコちゃんがいなくなったら悲しいよ。言ってたじゃん、ラッコちゃんが死んで、オレが悲しんだら嬉しいって。オレが悲しいんだから、ここにいてよ」
 たとえゴーストのままでも構わない。ゴーストのままでもいいから傍にいてほしい。そうして、フロイドも死んだら一緒に行くべきところへ行けばいい。そう思った。のに、
「ごめんな、フロイド。フロイドが悲しんでくれて嬉しいけど、やっぱりオレ、行かなくちゃ」
 するりとフロイドの手の中から感触のないカリムの腕が抜けていく。そうしてカリムは振り返ることなく、窓の前に行ってしまう。
 このままではカリムは本当に行ってしまう。遠くへ、フロイドがどんなに足掻いたって行くことができない場所へ。
 いかないで。
 ただそれだけの言葉が、喉の奥に引っかかって出てこない。フロイドの呼びかけは届かない。

「ラッコちゃん!!」

 腕を伸ばしたフロイドが見たのは、酷くぼやけた天井だった。

 
 白い実験服を着て、白髪にターバンを巻きつけた後ろ姿を見つけたフロイドは、のそりとその背中にのしかかる。
「おっ、フロイドか。おはよう!」
「……おはよー、ラッコちゃん。これから錬金術の授業?」
「ああ、そうだぞ!」
 怒られてくる! と輝かしい笑顔を見せるカリムは、フロイドのよく知るカリムだ。そんなカリムにそっと小さな瓶を差し出す。
「お? なんだ、何かくれるのか?」
「人魚の涙。……オレの負けだから、ラッコちゃんにあげるぅ」
「えぇ?! フロイド、泣いたのか?! オレが何かしたのか!?」
 腕の中で慌てるカリムに、真っ赤な目元を見せないように日の暖かさを感じる白く輝く髪に顔を埋め、フロイドは喚いた。
「……そーだよ! ラッコちゃんのせいで目が痛いんだから、今度絶対に責任とってもらうかんね!」畳む
    
フロカリ / 海に溺れる

 深く沈んでいたフロイドの意識が、ふわりと浮かび上がった。
 それに合わせて閉じていた瞳を開く。ぼんやりとした視界は段々とはっきりとしていき、ここが普段から使用している自分の部屋とは違うと気がついた。
 肌をなぞる乾いた風はオクタヴィネルのものとは全く違う。まだ夜が明けきっていない薄暗い空もよく見える。
 ここがどこであるか、と思考する前に、腕の中に暖かさが身動ぐのを感じた。それで昨夜あったあれこれを思い出した。
 投げ出された片方の腕がくしゃりと二人分の体の下敷きにされたシーツを乱す。それが海の波のように見えてフロイドはにんまりと笑う。
 このシーツが海だとしたら、昨夜の自分と腕の中の人間は派手に泳ぎ散らしたものだ。おかげでフロイドの視界に入るシーツはよく波打っている。
 フロイドのベッドとは違い、この部屋の主のベッドは広い。
 一寮生であるフロイドは兄弟であるジェイドとの二人部屋だが、フロイドの腕の中で眠る人物こと、カリムは二年にして寮長であり、熱砂の国の大富豪の長子だ。その地位や身分も含め、一人部屋を与えられている。
 広くて開放的な部屋で、同じように広いベッドの上で泳ぐのはひどく楽しいものだった。きっとカリムもそうであっただろうとフロイドは視線を腕の中に向け、真珠色の髪を指先で弄る。
 それがくすぐったいのか、むずがるように「ん〜……」とうめき声を上げて再び身動ぐ。居心地が良いところを探しているのか、暫くごそごそと動いた後に、瞼が震えた。
 数秒ほど待つと、フロイドの大好きな色がキャラメル色の瞼の下から現れた。
「ラッコちゃん、おはよぉ。まだ朝じゃないから寝てていいよー」
「……ふろいど……?」
 何が起こっているのか分かっていないように寝ぼけた表情を見せるカリムに笑顔を見せ、額にそっと唇を落とす。
 そこから唇を離すときにはわざとリップ音を立てた。その音で意識がはっきりしたのか、カリムは目を見開き、はくはくと口を開閉させる。
 その仕草はまるで餌を欲する魚のようだった。だから、そっちにもしてほしいのかと思ったフロイドは口も塞いでやった。
 すると褐色の肌でも分かるほど赤くなるカリムに、唇を合わせたまま楽しくなって笑ってしまう。
「フロ、ィド!」
 必死に名を呼ぶカリムの声はかわいそうになほどに掠れている。それがまた可愛くてフロイドは笑った。
 かすかすの声は、かの愛しい人のために声を対価にした人魚姫のようだ。この場合、声を対価にさせたのはフロイドになるが。
 幸いにして今日は学校は休みだ。どうせならその声を全部奪ってしまおう。
 良いことを思いついたとばかりにフロイドは体を起こして、カリムの上に乗っかるようにすると、何かを察したようにカリムは慌てだした。
 なにか言いたそうにしているが、それは後で聞いてあげることにして。
 今はまた、この白い海で二人で遊ぶことにしよう。畳む
    
フロカリ / ノート

 テストで満点が取れるなら授業なんて受けなくてもいいじゃん、というのはフロイドの持論である。
 しかし現実はそうもいかなくて、仕方なく受けたくもない授業を受けなければならない。学生とはままならないものだ。
 早々に教師の話す歴史の話を右から左へと流すことにしたフロイドは、ノートに落書きをすることにした。
 この間はタコとウツボの落書きをした。じゃあ今日は何を描こうかな、と悩む。
 ぐるぐると指の上でペンを回して、不意に頭に浮かんだ動物をノートに描き始める。
 フロイドが描くのはたいてい海の生き物だ。当然、今回も同じである。
 円な瞳と、小さな両手に貝を持った愛くるしい姿をノートに描きこむ。フロイドがペンをノートから離れさせると、そこには小さなラッコがいた。
 意外と上手く描けたそれに満足しつつ、でも何かが足りないと頭を傾ぐ。じっと己の描いたラッコを見て、ピンときたそれを描き足した。
 小さなラッコの頭にターバンを描き加えて、これでラッコは完成だ。うんうんと納得の出来に頷く。
 ノートに浮かぶラッコ一匹。納得の出来ではあるけれど、広いノートに一匹だけでは少し寂しそうだとフロイドは思った。
 それならばと隣にもう一匹描き足すことにした。今度はラッコではない生き物だけれど。
 左右の目の色が異なるウツボを一匹、ラッコに寄り添うように描いた。これでもうノートのラッコは寂しくないだろう。なんてったってウツボは愛情深い生き物なのだから。こんなに可愛らしいラッコを一匹にしておくはずがない。
 ノートの海に浮かぶ二匹が、どことなく楽しそうに見える。内心で自画自賛していると、フロイドが真面目に授業を受けていないことに気づいたトレインに問題を解くように当てられた。
 当然、話を聞いていなかったフロイドがそれに応えられるわけもなく。放課後に補習を受けるようにと注意された。

 補習から逃げようとしたけれど、放課後になった途端に教室にトレインが現れ、そのまま引っ張られるようにして補習を受けことになった。
 真面目に授業を受ければ優秀なフロイドである。面倒くさいのを我慢すればすぐに補習は終わった。
 早く補習から開放されたいと頑張った甲斐もあって、まだ空の色は十分明るい。
 今日は何をしようかと二つに割れた尾びれを動かす。部活には行く気になれないし、モストロ・ラウンジに顔を出すにはまだ早い。それに今日はシフトも入ってないので、別に行く必要もない。
 何か楽しいことがないかと学園の中をブラブラしていると、進行方向に目立つ白色を見つけた。
 ジャケットの代わりに白いカーディガンを着ている人物など、フロイドは一人しか知らない。
 フロイドにとってお気に入りでもある彼に、にんまりと笑みが浮かぶ。今日は彼と一緒に遊んで過ごそう。
「ラ〜ッコちゃん! オレと遊ぼぉ」
「うわっ、フロイド?」
 後ろから勢いよく抱きついて、でも彼が倒れてしまわないように抱え込む。
 フロイドから「ラッコちゃん」と呼ばれた少年こと、カリム・アルアジームは一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに「いいぞ!」と頷いてくれた。こういうところがお気に入りなのだ。
 カリムはフロイドを否定しない。フロイドの自由なところも、飽きっぽいところも、束縛されるのが嫌いなことも。なんだって受け止めて、フロイドの好きなようにさせてくれる珍しい人物だ。
 だからフロイドはカリムのことを気に入っている。アズールからもカリムと仲良くすることをなぜか推奨されているし、双子であるジェイドもカリムのことを気に入っているようだった。
 そういえば、と魔法史のノートの存在を思い出した。今日描いた落書きはラッコの落書きだ。自分でもよく描けたと思ったそれを、腕の中にいるカリムにも見せようと思った。
「ラッコちゃん、こっち来て」
 カリムを抱きしめてた腕を離して、今度は手を掴んだ。フロイドよりも小さい手に、なんだか胸の内側が暖かくなる。
 カリムは「どこに行くんだ?」と聞いても嫌がる素振りはまったく見せず、フロイドにおとなしくついていく。目的地はすぐそこだ。
 ついたのは教室で、先程までフロイドが補習を受けていた場所である。フロイドが勝手に荷物を置いている席に行き、そこをガサゴソと漁って目的のものを取り出す。
 取り出した魔法史のノートを、カリムは不思議そうに見ている。フロイドは、そんなカリムが落書きを見てどう反応するのか楽しみになった。
 ぺらぺらと白い部分が多いノートをめくって、今日描いたばかりの落書きのページを開く。そこには相変わらずラッコとウツボが仲良く寄り添っていた。
「見て〜、今日の授業中に描いたんだぁ」
「おおっ、フロイドは絵も上手いな!」
 何でもできて本当にすごいなぁと感心するカリムに、気分が上昇する。もっと褒めていいよぉと促せば、促した分だけカリムはフロイドを褒めてくれた。
「それにしても可愛いラッコとウツボだな! これ、オレとフロイドのことを描いてくれたんだろ、ありがとうな」
「へぁ? なんでオレとラッコちゃんなの?」
 突然、このラッコのモデルは自分とフロイドではないかと言い始めたカリムに疑問を持つ。フロイドは全くそのつもりはなかったので、どうしてそう思ったのかと問うた。
「だってこのラッコはターバンを巻いてるし、ウツボは右目に色を塗ってなくて、左目に色を塗ってるから、フロイドのことだろ?」
 言われてみて、改めてノートを見直す。確かにラッコに描き足したターバンはカリムが身に着けているものと同じに見えるし、左右で色の違うウツボは自分の目の色と同じに見えた。
 全くそんなことを意識せずに描いていたフロイドは、再び「可愛く描いてくれてありがとな!」と礼を言うカリムに何も言えなくなった。
 ウツボは愛情深い生き物だから、このラッコはもう寂しくないだろう。
 描いたときに思ったことが頭の中を巡って、フロイドは勢いよくノートを閉じた。
「わっ、どうしたんだ? フロイド」
「……なんでもない」
 不思議そうに見つめてくるカリムに、フロイドは何も言えなかった。

 なにせ、今しがた自覚したばかりのカリムへの気持ちに、フロイドの感情が追いつかなかったものだから!畳む
    
フロカリ / 求愛行動

 最近、ラッコちゃんの様子がおかしい。フロイドはそう思った。
 ラッコちゃんとはフロイドがつけた同学年のカリム・アルアジームのあだ名だ。そして、フロイドの想い人でもある。
 何かと好きだと言ってくるし、自作したらしいお菓子をくれる。見た目は悪かったけど、味は悪くなかった。
 どうしたんだろうと疑問に思うが、好きな相手から好きだと言われることも、多少見た目が悪くても自作だというお菓子をもらうのも嬉しいことに違いはない。
 しかし、フロイドにはこんなことをされる覚えはなかった。確かにカリムに対して「好きだ」と伝えれば同じように「オレも好きだぜ!」と応えてくれていたが、カリムから「好きだ」と言われることは今までなかった。
 どうせ友人としての好きなのだろう。カリムの好きはいっぱいいて、その中の特別になれたとはフロイドはまだ思っていない。
 いずれ特別になるとは考えているが、現状ではただの仲のいい友達としか思われていないはずだ。
 だからフロイドはあまり期待せずに、カリムに好きと伝えられたときに、「オレもラッコちゃんのこと好きだよ〜」と軽く返していた。その言葉に、ほんの少し恋情を込めて。
 カリムからの好きが、友達としての好きではなく恋愛としての好きへと変わってくれるよう願いを込めながら。
 我ながら随分と臆病だと思うし、自分らしくないとも思う。
 普段なら自由に言いたいことを言って、やりたいことをやる。だからさっさとカリムに対して想いを告げて、たとえ断られてもさっさと攫ってしまうべきなのだとわかっている。わかっているのだが。
 カリムの太陽のように眩しい笑顔を見ると、どんなひどいことも出来なくなる。形も不揃いで少し焦げたクッキーも目の前で食べてしまうし、歯が溶けそうなほど甘すぎる紅茶だって飲み干すことができる。
 だからカリムが好きなのだと気づいたのは最近だ。カリムが悲しいと感じるかもしれないことはできないし、したくない。きっとカリムから差し出されたものなら毒だって飲み干してみせるだろう。
「それは恋ですよ」
 カリムに対し抱く感情が何なのか、己の片割れであるジェイドに相談したらそう教えられた。珍しそうに目を見開いてしげしげと見つめられるのはいい気分じゃなかったから、その時は手を使って乱雑にジェイドの顔を無理やり逸らさせた。
 きっとこれも、カリム相手にはできないことだ。

 平日の朝、今日もまたカリムはフロイドに好きだと伝えにくるのだろうと、寮から出た。
 鏡舎から出るとそこにはカリムがいて、フロイドの姿を見つけると嬉しそうに笑った。それだけで機嫌が良くなり、今日は真面目に授業を受けようという気分になる。
「おはよぉ、ラッコちゃん」
「ああ、おはよう! フロイド!」
 どうせだから一緒に学校に行こうと考えて声をかければ、元気よくカリムも返してくれた。
 それから、カリムはフロイドにとって、とんでもないことをした。
 ぐわっと大きく口を開いて見せた。それにドキリと心臓が跳ね上がる。ウツボの人魚にとって、口を大きく開いて見せるのは求愛行動だからだ。
 咄嗟にフロイドはカリムの口を手のひらで塞いだ。心臓がばくばくと大きく脈打っている。どうして突然そんなことをしたのかはわからないが、迂闊なことはしないでほしい。
「ふおいお?」
「ラッコちゃん……そーいうの、あんまやっちゃ駄目だよ」
 特にジェイドの前では、と心の中で付け足す。
 すると、珍しくカリムが不満そうな顔をしながらフロイドの手を掴んで、己の口から離した。
「むぅ、これでも伝わらないか」
「……は? 伝わらないって、何が?」
「ウツボは口を大きく開けるのが求愛行動って聞いたけど、違ったんだな!」
 何を伝えたかったのかと問えば、とんでもない返事が返ってきた。
 そのまま「うーん」と唸りながら考え出すカリムに、フロイドの頭の中は真っ白になる。
 求愛行動、確かに先程カリムがやったのはウツボの求愛行動のそれだ。でも、何故カリムがそんなことをしたのか。
 これでも伝わらない、カリムは確かにそう言った。もしかしたら自分は何かとんでもない勘違いをしていないか。
「やっぱ言葉で伝えないと駄目だよな! 好きだぜ、フロイド!」
 音で表すならキラキラという音が似合いそうな笑顔でカリムが言う。そうしてやっとフロイドは気がついた。今までカリムが己にしてきたことは、好きだと言ったり、手作りのお菓子をくれたりしたのも、全てフロイドへの求愛行動だったのだと。
 今日までのカリムとのやり取りが一気に頭の中で再生されて、フロイドは今度は自分の口元を覆い隠した。
 そのまま座り込んで俯く。でなければ、顔が赤いのがカリムにバレてしまう。
「ふ、フロイド? どうした、具合でも悪いのか!?」
  急に座りだしたフロイドを心配してか、カリムが慌てだす。同じようにしゃがみこんでなんとかフロイドの顔を見ようとする。情けない顔をしているに違いない自分の顔を見られたくなかったフロイドは、しゃがみこんだカリムの首元へと顔を埋めた。
 カリムの首元から香る、どこか甘い匂いにくらりとしながらぎゅっと彼の体を抱きしめる。
「わっ、どうしたんだ、フロイド!」
「ラッコちゃんさぁ、ほんと……ほんとさぁ、そういうとこだからね……」
「そういうとこ……?」
 どういうところだ? などと疑問符を浮かべているであろうカリムに、両思いだったのだと漸く気づいたフロイドは、彼の唇に噛み付くようなキスをしてやるのだった。畳む
    
フロカリ / 人はそれを萌えと言う

「ラッコちゃんはさー、ちゃんと制服着ないよね。オレが言えることじゃないけど」
 昼休みの中庭で。暖かそうで触り心地も最高級な白いカーディガンの端を摘んでひらひらと揺らすと、カリムはきょとんとした顔でフロイドを見上げた。
「んー、だってジャケットだけだと寒いだろ?」
「寒い? 寒いのラッコちゃん。裾は捲くってんのに?」
「暑いのは得意なんだけど寒いのは苦手なんだよなぁ。ここは熱砂の国と比べると寒いから。あと、窮屈な服装って好きじゃないんだ」
 確かに熱砂の国と比べるとナイトレイブンカレッジは寒いだろう。というか、どこと比較しても寒いに違いない。
 もう一つの理由はフロイドも理解できた。窮屈な格好はフロイドも好きではない。だから制服も寮服も着崩している。きっちりと着こなしている片割れを見ると、息苦しくないかと思ってしまうときだってあるくらいだ。
 そういえばスカラビアの寮服は随分とゆったりとした服装だったなと思い返す。あの格好に慣れていたら、確かに学校の制服は窮屈で仕方ないだろう。
「センセーとかに怒られたりしねーの?」
「先生に怒られたことはないけど、リドルにならあるぜ!」
 突然出てきたもう一人のお気に入りの名前を出されて、すぐに確かにと納得する。リドルという少年は規律に関して非常にうるさい。
 からかうと真っ赤になって、まるで金魚のようで面白いが、規律についてつらつらと説教してくるところは少しうざいと思っている。
 しかしそんなリドルに説教されたであろうカリムが、未だに正しく制服を着ようとしていないあたり、どうやらリドルのほうが折れたということが伺える。自分もそうだが、カリムにはつい甘く接してしまう生徒がこの学校には多い気がするとフロイドは思った。
 カリムの太陽のようにそこはかとなく明るい笑顔に浄化されてしまうのか、どんな嫌味を言っても前向きに捉えられてしまうからか。自然とカリムの望むように話は展開する。
 これはもう、彼の持って生まれた才能だろう。そのせいでカリムの従者はオーバーブロットしてしまったが、フロイドとしてはそういったところも気に入っているところである。また、こちらもたまにうざいと感じることには違わないが。
「それにジャケットがどこにあるかわからないしな。多分、ジャミルは知ってるんだろうけど」
 オレにジャケット着る気がないってことも知ってるから、ジャケットは永久に行方不明だ、とあっけらかんと言い放つところに笑ってしまう。
 しかしそうなると逆にジャケットを着せてみたくなるのがフロイドだった。
 フロイドは自分が来ていたジャケットを脱いで、カリムに投げ渡す。いきなり飛んできたそれを慌てて受け取ったカリムは不思議そうにフロイドのジャケットに視線を落とした。
「オレのジャケットでいいから着てみてよ、オレのサイズなら窮屈じゃないでしょ? ラッコちゃんがちゃんと制服着てるの見てみたい」
「なんかわからないが、フロイドが見たいってんならいいぜ!」
 言うが早いか、カリムはもともと着ていたカーディガンを脱いでフロイドに渡した。手の中にあるカーディガンはふわふわしていて、それでいて滑らかで、先程も感じたが触り心地がとても良い。いつまでも触っていたくなるような中毒性がある気がする。
 ラウンジでの日々の売上を計算しているアズールを思い浮かべながらいったいこれだけでいくらするのだろうと考えてしまう。
 が、大富豪の長子たる彼にとっては大したことのない額なのだろう。なにせ色が白だ。それを普段から着ている。汚れなんて全く気にせず、汚れたら買い換えられる程度のものなのだ。
 それなら一着もらえないかなぁと触り心地に夢中になっていると、「フロイド!」とカリムに名を呼ばれる。
 もふもふと手の中で遊ばせていたカーディガンから視線を上げ、フロイドのジャケットを来たカリムを見て、フロイドは固まった。
 肩幅の位置がそもそも違うため、ダボッとした印象が与えられる。袖もだるだるでカリムの指先すら見えない。裾は短めのワンピースほどある。とてもではないが似合うとは言えない状態だった。だが、
「なっはっはっ、やっぱりフロイドのサイズだとこうなるよな! どうだ? これでも似合ってるか?」
 見えない指先をひらひらさせて、その場で一度くるりと回転するカリムに、フロイドは胸に去来する感情に戸惑う。
 ぐっ、と何かがこみ上げてくるような衝動を抑え込む。言葉にできない、なんとも言えない感情に戸惑いつつも、フロイドは本能的に思った。
 これは、他の人間には見せてはいけないものだと。
「ラッコちゃん」
「おう、……どうしたんだフロイド、そんな真剣な顔して」
「オレのことはいいから。とにかく、その格好、他の雑魚には見せちゃ駄目だから」
「え、そんなに似合わなかったか?」
「似合うとか似合わないとかじゃねーから。あと、ジャケット着てとかお願いされても着ちゃ駄目。絶対」
「そんなこと言うやつあんまいないと思うけど……わ、わかった。もう着ないから怖い顔しないでくれ」
「オレの前だけなら着てもいーよ」
 ただし着るのはオレのジャケットね、と付け足すと、カリムは不思議そうにしながらも頷いた。
 これでフロイド以外がカリムのちゃんとした――サイズが全くあっていないが――制服姿を見ることはなくなった。そのことになぜか安堵する。しかし、それで話は終わらないのだ。
「あ、」
 安堵したのもつかの間、何かに気づいたようにカリムが声を上げた。どうかしたのかと思うと、カリムの手先をすっかりと隠してしまっている袖にカリムは顔を埋めるようにして嬉しそうに言う。
「これ、フロイドの匂いがするな。オレ、フロイドの匂い好きだからもうちょっと着てていいか?」

 再び去来した激しい感情に、フロイドは近くにあった木に頭を打ち付け、中庭にフロイドを心配するカリムの声が響いた。畳む
    
フロカリ / ほころぶ口元を隠しきれない

 ずっと憧れていたことがある。
 キラキラと色とりどりの装飾、通りに並ぶ様々な出店に、街中を練り歩くパレード、軽業を披露する曲芸師たち。それらを楽しそうに見つめるたくさんの笑顔。
 熱砂の国で、サマーホリデー中に行われる祭り。誰もが笑顔で溢れていて、どんなことにもみんなが楽しんでいるのがよくわかる。
 その様子を、カリムはいつも自室のバルコニーから眺めていた。否、眺めていることしかできなかった。
 なにせカリムは世界に名を轟かせる大富豪、アジーム家の長子だったものだから、常にその命を狙われている。
 だからカリムはどれだけ強請っても、あんなに人が多いところに行ったら命がいくらあっても足りないからと、アジーム家に仕える者たちに止められた。
 自分を心配し、心苦しそうにする従者たちの顔を見ると、カリムはそんな我侭を言わなくなった。もしもあの場に行ってカリムに何かあったとき、罰せられるのは彼らだから。
 だから、想像するのだ。バルコニーから見える色彩豊かな光と、人々であふれる祭りの中に、自分がいたのならと。
 たくさんの出店に並んでいる商品や食料に目を輝かせ、パレードが目の間を通り過ぎていく様を、曲芸師の技術に目を奪われることを。想像の中の自分はいつも楽しそうで、けれど現実の自分はそうではなかった。
 パレードなら命じればいつだって開催できる。曲芸師だって家に直接呼び出してしまえばいい。料理は一流の職人によって最高級のものが供される。
 けれど、そうではないのだ。家の名を翳して呼びつけるのではなく、見知らぬ誰かと笑い合いながら楽しみたいのだ。カリムの知らない人たちと、カリムを知らない人たちと一緒に楽しさを分かち合いたいのだ。
 だからだろうか、宴が好きで、ついつい定期的に開催してしまうのは。
 楽しさを分かち合うのは寮生のみんなで、誰も彼もがカリムのことを知っているけれど、それでもたくさんの人で楽しむのがカリムは好きだ。
 たくさんのおいしい料理と、豪華なパレード。音楽に合わせて踊ったり歌ったり、宴だってもちろん楽しい。
 けれども、一度だけ。一度だけでいいから祭りというものに行ってみたかった。カリムの従者に言えば、当たり前のように却下されてしまうが、それでも小さな頃に抱いた憧れはいつまで経っても消えてくれなかった。


 ◆ ◆ ◆
 
 
 それを見たのはたまたまだった。もうすぐサマーホリデーを迎えるNRCの近くで、祭りが開催されるという主旨のポスター。カリムはそれに釘付けになった。
 開催されるのはちょうど休みの日で、行こうと思えば行ける場所だった。
 しかし学園の外にはカリムにとって危険で溢れている。常に命を狙われ、誘拐の危機がそこかしこにあるのだ。この祭りに参加したいと言おうものなら、彼の従者――ジャミルになんと言われるだろうか。あまりにも容易に想像できてしまって、カリムらしくない苦笑いが浮かんでしまう。
 諦めなければいけないと思うほど、行きたくなってしまうのは人間の性だろうか。せめて雰囲気だけでも知りたいと、ポスターの前に立ち止まってそれを眺め続けていた。
 そんなときだ。聞き覚えのある声に呼ばれたのは。
「ラッコちゃん、そんなとこにぼーっと立ってなにしてんの? 邪魔なんだけど」
「フロイド、」
 ラッコちゃん、と自分にあだ名をつけた人物――正確には人魚だが――は一人しかいない。
 その声に振り返ると予想通り、フロイドがいた。
 邪魔だなんて辛辣なことを言われても、カリムはにこりと笑い、「ごめんな!」と言いながらその場を離れようとした。けれど、それはできなかった。
「なぁに見てんの……夏祭りぃ?」
 カリムが見ていたポスターをフロイドが読み上げる。それからニヤニヤと笑みを浮かべ、カリムの顔を覗き込んできた。
「ラッコちゃんはこれに行きたいの?」
 答えがわかっていながら聞いてきているのだろう。カリムは一度、誤魔化そうとして、すぐに諦めた。
 己が壊滅的に嘘が下手だと言うことを、自分自身よく知っているからだ。素直なのが取り柄だと胸を張って言える程度にカリムは自分の心に素直であった。
「ああ、こういうの、楽しそうだろ? オレは行ったことがないから行ってみたくてさ」
 子供っぽいと思われただろうか、少し気恥ずかしくなりながら頬を指先で掻きながら頷く。
「え〜? ラッコちゃんてばこういうの好きそうなのに、行ったことがないの?」
 フロイドは不思議そうにそう言ったあと、「あ、」と何かに気づいたように言葉を飲み込んだ。言葉を飲み込むなんてフロイドにしては珍しいが、カリムが祭りに行ったことがない理由に思い当たったのだろう。
 カリムは眉をハの字にしながら笑った。笑う以外にどうすればいいのかわからなかったからだ。
 気分屋で自由人なフロイドに気を使われたくはない。だから何かと理由をつけて、この場を離れようとしたときだった。
「じゃあさ、オレと一緒に行っちゃう? お祭り」
「え……?」
 ポスターを指差しながらカリムに問う。そんなフロイドにカリムはついていけず、なにを言われたのかすぐにはわからなかった。
 そんなふうに呆然としているカリムの右手を徐にフロイドが取り、彼の小指がカリムの小指へと絡まる。
「オレと一緒にこの祭りに行くこと、約束だよ。ラッコちゃん」
 指切った、と手が離れていく。それを見守ったあと、フロイドが言ったことを漸く理解して、カリムは慌てた。
 大変な約束をしてしまった。今すぐ取り消してもらわないといけない。
「フロイド、オレは祭りには行けな……っ」
「あ、あとぉ、このことは他の誰にも言っちゃ駄目だから。これも約束ね」
「ええっ、でも……」
 ジャミルになにも言わずに祭りになんて行ったら後が怖い。
 だからこそなんとか断ろうとするも、突然フロイドが悲しそうに目を細める。
「約束したのに、指切りまでしたのに。ラッコちゃんはオレと一緒に祭りに行ってくれないんだぁ」
「う、うう、そんなことはないぞ! でも外は危険だから……」
 あからさまに悲しそうなそれが演技であると誰もが気づくだろうが、お人好しであるカリムはそれが見抜けない。
「オレといるのに危険なんてあるわけないじゃん。じゃあ次の休みの日にここに集合ね。約束だから絶対だよ」
 またしても右手を取られて指切りされてしまった。絶対だとまで言われて、カリムはますます困った。
 約束は大切だ。約束を破ってしまったら相手が傷つくし、傷つけてしまった自分の心も痛む。これが商談だったら信用の問題にも繋がる。
 困った様子のカリムを放って、フロイドは「またね〜」と手を振ってどこかへと行ってしまった。鏡舎の方だったから、寮に帰るのだろう。
 追いかけて約束をなかったことにしてもらおうとしたが、悲しげなフロイドの表情を思い出すとそれもできない、
 次の休みの日、カリムはこの場に来ることになるだろう。そのときにこそ祭りには行けないのだと言うしかない。
 でも――ちらりとポスターに目を向けた。
 心の奥で祭りに行きたいと駄々をこねる幼い自分がいた。飲み込むしかできなかったかつての我侭を、叶えてやることができるかもしれない。
 本当はいけないことなのに、どうしても期待してしまう。どうしようと悩んでいるのに、心の中の天秤は一方に今にも傾いてしまいそうだ。
 とにかく、当日までジャミルには秘密にしておかなければ。祭りに行くことができなくても、その約束くらいは守らなければと、カリムは自分に言い聞かせた。

 そうして迎えた休みの日。カリムは普段は着ないようなシンプルな服装に、顔を隠すための帽子を深く被ってポスターの前に立っていた。
 寮を出るときにジャミルが自室にいたことを確認し、魔法の絨毯を使って己の部屋から出てきたから、ジャミルはきっとカリムは部屋にいるものと思っているだろう。
 フロイドと祭りに行く約束をしたことを黙っているのは大変だったが、ジャミルは気づかなかったようだ。いつも以上にニコニコと顔が笑顔を作ろうとするのを堪えていたが、カリムが変な行動をするのはよくあることだと気にしなかったらしい。
 おかげで気づかれずにここにいる……と、そこまで考えて、ぶんぶんと頭を振った。
 ここへはフロイドと祭り行くことはできないと告げるために来たのだ。決して祭りを楽しむためではない。
 ……しかし、斜めがけの鞄には何かがあったとき用にと、いくらかのマドルが入っている。断じて大した意味はないが。
「あは、ラッコちゃん祭りに行く気まんまんじゃん」
 背後から聞こえた声に、カリムは振り返る。そこにはラフな格好をしたフロイドが立っていた。
 楽しそうに口元を緩めてカリムを見下ろす姿に、カリムはハッとした。
「ち、違う! やっぱり祭りには行けないんだって言いに来たんだ。誘ってくれて嬉しかったけど、やっぱりオレは……」
「ウミヘビくんに祭りのこと秘密にして、そんな顔隠すような帽子被って言い訳しても説得力ないからさ、早く行っちゃおうよ」
 フロイドとの距離が縮まって、約束をした日のように手を取られる。今度は小指を絡めるのではなく、そっと握りしめられた。
「オレ、陸の祭りって初めてなんだよね〜。なにがあんのかな? 楽しみだね、ラッコちゃん」
「ふ、フロイド、待ってくれ。だからオレは行けないって……」
「口元がめちゃくちゃ緩んでるのに何言ってんのぉ? 大丈夫だよ、危ないことがあったらオレがラッコちゃんのこと守ってあげるから」
 口元が緩んでると言われて、空いている手で抑える。確かに言われたとおり、カリムの思考とは全く逆に口角が上がって、どうみても笑顔になっているとしか思えなかった。
「これは……その、」
「いーから、ラッコちゃんは祭りの会場に行くまで黙ってて。オレも今日のこと楽しみにしてたんだから、今更行くのなしとかねーから」
 ね? と帽子の下のカリムの顔を覗き込んだフロイドもまた楽しそうな――普段の悪いことを考えているようなものではなくて、とても純粋な――笑顔だった。
 そんなフロイドの表情を見てしまっては、もう駄目だと思った。
 フロイドの笑顔に釣られたようにカリムもくしゃりと顔を綻ばせ、握られた手を握り返した。畳む
    
フロカリ / 初

「あのさぁ、付き合うって何すればいいの〜?」
 どこか情けない色味を帯びた声がモストロラウンジのVIPルームに響いた。
 ラウンジが閉店してから今日の売上を集計していたアズールと、同じように事務仕事をしていたジェイドは思わずその声の発生源を見る。
 そこには気怠そうに横になりながらどこか深刻そうな表情をしているフロイドがいる。
 つい先日、初恋がどうのと騒いでジェイドたちを巻き込んだ挙げ句、あっさりと想い人と想いを通わせることができたとお花畑になっていた張本人。
 今度は何事かとアズールとジェイドは一瞬だけ目を合わせる。とかくめんどくさいことには間違いないだろうと、内心ではため息が漏れそうだった。
「どうしたんですか、フロイド。この間は嬉しそうにカリムさんと恋人同士になったと報告してきたではないですか」
「もうすでに倦怠期にでも入ったんですか」
 彼の片割れであるジェイドは、事務仕事の手を止めフロイドの話に乗る、下手に放置したほうが面倒だと判断したためだ。そして同じ判断をしたアズールが面倒臭そうに問う。
 ジェイドもアズールも、フロイドとカリムの関係に異を唱えることはない。寧ろ歓迎しているくらいだ。
 フロイドがカリムに「今日のラウンジの仕事、頑張ってな!」などと言われた日にはいつも以上に調子がよくなるし、アズールとしては将来のことを考え、カリムとは良い関係を築いておきたいためにフロイドとカリムの仲が拗れることは良しとしない。
 閑話休題。
 アズールの発言にムッとしたように、フロイドは一度顔を上げて「そんなんじゃねーし!」とふてくされたように言ったあと、またソファに顔を埋めた。
 そうしてもごもごと何か呟いたと思ったら、今度は弱々しい声が上がった。
「自然に手ぇ繋ぐとか、どうすんのかなって思っただけだし」
 ぴしり、と空気が凍るような音をジェイドとアズールは聞いた気がした。
 付き合う前は距離感がどうなっているんだ、と思うほどベタベタと抱きついたり持ち上げたり、それこそ手を繋ぐなんて呼吸をするより当たり前だと言わんばかりにしていたくせに、いざ恋心を自覚して、恋人として付き合うようになった途端にどうすればよいか悩んでいるなんて。
「フロイド……あなた、意外と初心だったんですね」
「……あなたとカリムさんのことですから、すでに一線くらい超えてると思ってましたが……」
 知らなかった片割れの意外な姿に、どこか感心したようにジェイドは呟く。もし自分が誰かに恋をしたらこうなるのだろうか、などと真剣に考えてしまう。
 アズールは意外だとばかりにフロイドを見つめながら、思っていたことを口に出した。その言葉にフロイドは勢いよく体を起こして反論する。
「はぁっ?! ラッコちゃん相手にそんなのすぐできるわけねーじゃん!」
 人魚故に白すぎる顔を真っ赤にしながら反論するフロイドに、そんな彼は見たくなかったとジェイドとアズールは目を逸らす。
 状況は思っていた以上に深刻そうだ。なにせあのフロイド・リーチがここまで拗らせているなど、そうそうないし、彼のキャラクター的にあってはならない。
「もしや、人間の雄同士の交尾の仕方が分からないとか?」
「そんなんラッコちゃんと付き合い始めてからすぐ調べた」
「手を出す気満々じゃないですか……ならばどうしてそんなことになってるんです? あなたらしくない」
「だって……」
 子供のようにでもでもだってと言いそうなフロイドを、見たこともない生き物でも見るようにして続きの言葉をジェイドとアズールは待つ。
 数秒か数分か、ようやく口を開いたフロイド曰く、
「ラッコちゃんが前よりもっと可愛くなってるし、前よりもずっとキラキラしてるから手ぇ出せないんじゃん! なんであんなに可愛くなってんの?! しかもそれでオレのこと「大好きだ!」って言ってくるし、眩しくて目も開けらんないじゃん!」
 なんとも理不尽な言いようである。確かにカリムは可愛いか格好いいかなどで区別するならば、可愛いにカテゴライズされるだろうが、ジェイドとアズールからしてみれば以前と変わりない。
 つまり惚れた欲目によるフィルターがかかっているようだった。そんなことで以前よりも接触が少なくなっているなんて、カリムのほうが可哀想ではないか? という疑問も浮かんでくる。
 というか単に惚気を聞かされたジェイドとアズールは、まるでカリムが入れてくれるお茶でも飲んだ気分になった。
 甘ったるいことこの上ない。幸せそうで何よりですと他人事な――間違いなく他人事ではあるが――ことを聞かされて、今すぐにでもブラックコーヒーを飲みたい気分になった。仕事が終わったらコーヒーを淹れるようにアズールはジェイドに目配せした。
 そしてそんな砂糖製造機と化したフロイドは頭を抱えながら「可愛すぎるラッコちゃんに触れなくなって嫌われたらどうしよう」などと供述しており……、とにかく今日は休むようにジェイドが悩んでばかりいても仕方がない。案ずるより産むが易しという言葉も陸にはあると言葉巧みにフロイドをVIPルームから追い出し、自室に戻るように促した。
 ようやく訪れた静寂に、残ったアズールとジェイドは一つため息をこぼした。
「フロイドがああなってしまうとは……恋とは恐ろしいものですね」
「あんな姿は始めてみましたね……僕もああはならないように気をつけたいと思います」
 とりあえずコーヒーを淹れますね、と席を立ったジェイドの後ろ姿を見送ったアズールは、止めていた集計の仕事にようやく戻ることができた。


 翌朝、フロイドは若干、フラフラとした足つきでオクタヴィネル寮を出た。
 鏡を通って鏡舎に出ると、そこにはいつの間にかフロイドの心をすっかりと奪っていった恋人の姿――カリムの姿があった。
 カリムはフロイドに気がつくと、嬉しそうに満面の笑顔を浮かべる。ただそれだけでフロイドの目が灼かれるかと思った。
 太陽を直接見たような眩しさを覚えて思わず目を細める。
 誰かの笑顔が眩しいなんて思うことは、カリム以外では絶対にないであろうとフロイドは密かに思う。
「おはよう、フロイド!」
 その声はまるで天上から鳴り響く音楽のように聞こえて、さすがのフロイドも自分がどうにかしてしまったのではないかと考え始めたが、脳内の彼の片割れと幼馴染からは今更だと言われた。
「……おはよー、ラッコちゃん」
 なんとか返事を返すと、いつもとは違うフロイドの様子に気づいたらしいカリムが、心配そうにフロイドの顔を下から見上げた。普段は鈍感なくせに、こんなときばかり彼はよく気がつくのだ。
 そして、これはよくない、とフロイドは思った。上目遣いに、心配そうに寄せられる眉。これが己のためのものだと思うと、心臓の奥でぐわりと何かがこみ上げてくる。
「どうした? どこか具合が悪いのか? 保健室に行くか?」
 純粋な好意から心配してくるカリムに罪悪感を覚えると同時に、彼のことが好きだという気持ちがますます膨らんでいった。
 もうこれ以上はないと思っていたのに。カリムはどんどんフロイドの初めてを奪っていく。衝動的に抱きしめたくなるが、そこはぐっとこらえた。
 感情のままに動いてしまったら、まだ人間二年生であるフロイドはカリムを傷付けてしまうのではないかと不安になってしまうのだ。
 きらきら輝くカリムに――これはフロイドの惚れた欲目であるフィルターがかなり掛かっている――なんとか大丈夫であることを告げることができた。
 カリムが好きすぎてどうにかなってしまいそうどなどと、言えるはずもなく、フロイドにしては珍しく口を閉ざすしかない。
 相変わらず心配気なカリムは、それでもフロイドの気持ちを優先してから、「そっか」と納得したように頷いてくれた。ああ、そんなところも愛おしい。
 思わず手が伸びそうになったところ、なんと逆にカリムからぎゅっと手をにぎられてしまいますフロイドは目を丸くした。
 フロイドがあんなに悩んでいたことをあっさりとやってのける。さすがはカリム・アルアジーム。
「……久しぶりに手を繋いだな」
 やはりカリムもフロイドからの接触がなくなっていたことを気にしていたのか、少し寂しそうに、そして照れくさそうに笑う。
 その笑顔たるや、可愛らしさのあまりに崩れ落ち無かったことを、フロイドは自分を褒め殺したくなった。それから、やはり不安にさせていたのだと申し訳なくなった。
「ら、ラッコちゃん……」
 じわじわと繋いだ手から体温が上がっていくような気がして、フロイドの声が上擦る。頬が赤くなってないか心配になった。
「なぁ、今日はこのまま学校に行かないか?」
 不安げに、恐る恐る上目遣いでのお願いに、フロイドが否と言えるはずもない。頬が熱い。顔はきっと、分かりやすいほど赤くなっていることだろう。
 こんなとき、人魚特有の白い肌を恨むことになるとは思ってもみなかった。
「…………いーよぉ」
  なんとか絞り出した声に、カリムは嬉しそうに「ほんとか!」と花が綻ぶように笑った。ああ、その表情は駄目だ。愛しいが過ぎる。
 人魚は愛情深いと、いつか聞いたことがある。まさか自分がこうなってしまうなど露程も思ってなかったフロイドは、あの言葉は本当だったんだなと実感を籠めて思った。
 こうしてフロイドとカリムは、仲良く手を繋ぎながら登校することとなる。
 
 方や満面の笑顔で、もう片方は頬を赤らめながら歩く姿はNRCの生徒達にかつてない衝撃を与えたのは言うまでもないことだった。畳む
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