レオカリ / 運命の赤い糸の話 / お前が俺の運命

 ぽかぽかと柔らかい日光が差し込む植物園にて、レオナはいつも通り微睡んでいた。今日は特に昼寝に適した気候だ。適度に空調管理された植物園、生い茂る葉によって出来た木陰、授業中だから煩い音もしない。
 授業も特にサボっても問題ない授業だったし、最高の昼寝日和だ。
 右腕を枕に、左腕を投げ出して横になって惰眠を貪っていると、レオナのライオンの耳がちりりん、と鈴の音を拾い上げた。同時に投げ出した左手の小指に違和感を覚える。目を開くのが億劫だったが、自分に何かが起きているとなると話は別だ。
 ぱちりと目を開いて左手を見てみると、そこにはきらきらと存在を主張する小さな妖精がいた。妖精はレオナの左手の小指を見るとくすくす笑って、その度にちりんちりんと音を立てる。
 レオナは妖精がレオナが起きている事を悟られないようにしつつ、突然左手で妖精を掴んだ。掴まれた妖精は驚いたように手の中で暴れたが、逃すわけにはいかない。
「テメェ、人の指に何してやがる」
 妖精というだけで誰かさんを思い出し、不愉快な気分になる。妖精は手の中でちりんちりんと喚いては暴れるだけだ。生憎、翻訳機なんて便利なものを持っているわけではないので何を言っているのか分からない。
 仕方ないので自分で状況を理解するために左手に掴んだ妖精を放して手を見てみる。これ幸と妖精はすぐに逃げ出してしまうが、気にしない。
 すると左手の小指、手袋の上から赤い糸が垂れ下がっていた。その赤い糸はどこまでも伸び、先が見えない。
「あ? なんだこれは」
 手袋を外してみるが、赤い糸はそれをすり抜けて指に巻きついたまま。掴んで千切ってみようにも異様なほど頑丈で、試しに“王者の咆哮“を糸にかけてみたが、無駄だった。厄介な悪戯をされたものだ。大体なんだ、この糸は。
 レオナは「チッ」と短く舌打ちをして手袋を付け直すと、ご丁寧に手袋越しに赤い糸がぴょこんと結ばれていた。小さな蝶結びが可愛らしく揺れるのが腹立たしい。どうしても見えるようになっているようだ。
「面倒くせぇ……」
 はぁ……と溜め息を吐くと図書館へと向かうことにした。悪戯を仕掛けた妖精はさっき逃がしてしまったし、とにかく情報が欲しかった。
 小指からぷらぷらと赤い糸が垂れ下がっているのがレオナ以外にも見えるのか、授業終わりの生徒が遠巻きでなんだあれとでも言いたげな視線が鬱陶しい。睨めばすぐにその視線は逸らされるがすぐにまた突き刺すような好奇の視線が集まる。
 早く図書館に、と向かおうとした時だ。逆さまになった幼い容貌が目の前に現れた。突然逆さまの姿で現れた相手に一瞬、目を見開いたが知っている人物だったため、すぐに眉間に皺を寄せる。
「いきなりなんの用だ、リリア」
 不機嫌だと言う気分を露わにしつつ、逆さまの人物の名前を呼ぶ。するとリリアは、くすくすと笑いながら地に足をつけた。
「くふふ、随分と可愛らしい悪戯をされておると思ってのぅ」
「……テメェ、これが何なのか知ってんのか」
 そう言えばこいつも妖精族だったなと思い出し、睨みながら問いただすとリリアは更に面白そうに笑みを深めた。レオナにとって嫌な笑いだと思った。
「そう警戒するでない。赤い糸の先にいる運命の相手とキスすればすぐに見えなくなる悪戯じゃ」
「あ? 運命の相手だと?」
「知らんのか? 人間、誰しも運命の相手がいるものなんじゃよ。その相手は普段は誰か分からなくなっておるが、お主がかけられた悪戯はその赤い糸を通して一時的に相手が見えるようになっているようじゃな」
 なんだその迷惑な悪戯は。レオナは頭が痛くなって米神に手を当てる。すると視界に赤い糸が見えて思わず舌打ちをした。
「その悪戯を解除したら運命の相手と一生を添い遂げられるらしいぞ?」
 運命の相手と添い遂げられる、だと。頭に浮かんだ恋人の太陽のような笑顔を、そんな都合の良いことがあるわけがないと掻き消す。何せお互い雁字搦めの立場だ。
 片や夕焼けの草原の王になることができない第二王子。もう一方は世界有数の大富豪の跡取り。今は恋人同士であるが、学園を卒業したらどうせ離れ離れになる。学園にいる間だけの関係だとお互い割り切っている……そう、自分に言い聞かせている。
 じっとりとした恋心だった。叶うはずがないと諦めていたものが、どうも相手も――カリムも同じ気持ちだったようでまさか実を結んで始まった関係。学生の間だけ、とお互いに言いながら過ごしてきた。
 そんな時に、運命の相手? レオナは左手の小指の先から伸びる赤い糸の先に誰がいるのか、急に恐ろしくなった。
 図書館に向かおうとしていた足はすぐに寮の方へと向き直り、カリムに会わないように足早に歩く。幸い寮への帰り道には特に誰にも会わずにレオナは自室へと戻れた。寮長室用の大きなベッドに身を投げ、両手を頭の後ろに回して枕にする。そうすれば赤い糸は見えない。
 今日の昼はカリムと昼食を摂る予定だったが、レオナは行く気にならなかった。否、なれなかった。カリムの左手の細い小指に何もないと考えただけで、気でも狂いそうになる。
 それだけ己がカリムに溺れているのだという事実に、今更ながらレオナは驚いた。怯えて会うこともできなくなるなんて。
 運命なんて馬鹿らしい。そう思いつつも取っている行動は真逆だ。糸がカリムと繋がっていないという事実を分かっていながら、怯えて巣に籠っている。
 それに、レオナ自身に赤い糸が巻き付いているのを見られるのも嫌だった。カリムから何か言われるのも、何も言われないのも考えたくない。
 深く深く溜め息を吐き、レオナは瞼を閉じた。

「――さん、……レオ……さん! レオナさん!」
 近くから大きな声で自分の名前を呼ばれる。うっすらと目を開いて、不機嫌だとグルルと唸った。普段なら寝ているレオナを起こそうなんて真似をしないラギーがレオナを起こしたからだ。一体何の用だと睨みつけると、ラギーは一瞬たじろいだが、負けじとこちらを見つめてきた。
「もう放課後っスよ! 今日の昼はカリムくんと飯食う約束をしてたんじゃないんスか? カリムくん、ずっと弁当食わずに待っててオレだけ飯食ってて申し訳なくなったじゃないスか」
 眠りについてもうそんなに時間が経っていたのか。窓の外が赤くなっているのを見て、随分と寝ていたのだと自覚する。同時に、弁当を持って食堂でレオナを健気に待つカリムの姿が目に浮かび心が痛んだ。罪悪感を覚えて思わずふい、とラギーから視線を逸らし、ごろりと寝返りを打つとラギーは何かに気づいたように不思議そうにレオナの手を見た。
「あれ? レオナさんも小指に糸巻きつけてるんスか? って何この長い糸!?」
「……は? 俺以外に誰か小指に赤い糸巻き付けてるヤツがいたのか?」
 今更糸が扉の先まで伸びていることに気づいたのか、驚いているラギーを無視して問いかける。半身起こして早く答えろと促せばラギーは糸に視線をやりつつ応えた。
「いや、カリムくんの左手の小指にも赤い糸が巻いてあったんスよ。カリムくん曰く、午前中の授業を受けてたら急に糸が巻き付いててーって笑ってて……ってちょ、レオナさん?! どこ行くんスか!?」
 ラギーの言葉を全て聞き終わる前にレオナは起き上がって部屋から飛び出した。走って向かう先はスカラビアだ。
 糸を追うように走っていると、寮生たちが驚いたようにレオナを見て道を開ける。サバナクローから鏡舎に出て、スカラビアの鏡に飛び込むように入り込んだ。糸はスカラビア寮内へと続いている。心臓がどくどくと大きく鳴っているのが分かる。
 糸の方向を目指せば、長かった糸はレオナの左手の小指の糸に吸い込まれるようにどんどん短くなっていく。途中、全力で走る多寮の寮長の姿にスカラビア寮生が「なんでキングスカラーがここに!?」と驚く声が聞こえたが、無視した。
 奥へ、奥へと進んでいけば、糸はとある扉の向こうに伸びていた。大きくてやたらと豪華な扉は、スカラビア寮の寮長室だ。
 ノックをすることも忘れて扉を開く。そこには長い黒髪の男がいた。
 カリムの従者のジャミルだ。ジャミルは目を見開いてレオナを見た。レオナもレオナでジャミルがいるとは思ってもおらず、そしてまさかと思いすぐにジャミルの左手を確認する。褐色の男らしいその手から糸は垂れておらず、心から安堵した。
 気を取り直して糸の先を探せば部屋の奥の方にあるベッドまで伸びている。ベッドは天蓋が閉じられており、この部屋の主人の姿が見えない。
 一歩踏み出そうとすれば、ジャミルが前に出てきてレオナを止める。
「なんでレオナ先輩がここにいるんです?」
「恋人に会いに来るのに理由が必要か?」
 はっ、と鼻で笑って見せるとジャミルは不愉快そうに顔を顰める。
「生憎、カリムは今は何らかの呪いに掛かっているため会うことができません。お引き取りください」
 なおも立ち塞がり、ジャミルはレオナを追い返そうとする。レオナはレオナで、呪いと称されたこの赤い糸に思わず笑いが込み上げた。呪い、確かに先ほどまでレオナもそう思っていた。しかし今はその呪いは、レオナにとって祝福となった。
 だからジャミルに見せつけるように左手を持ち上げて手の甲を見せるように掲げた。
「呪いってのはこれのことか?」
 レオナの小指から垂れ下がる糸は確かにベッドの方に……正確には、ベッドの上にいるであろうカリムの元に伸びている。
「なんでレオナ先輩にもそれが……」
 驚きで目を丸くするジャミルの肩に手を置き、扉の方へと押し出した。押されるまま、ジャミルはレオナが開いた扉の向こうへと蹈鞴を踏む。
「悪ぃがこれからは恋人同士の時間だ。従者サマは部屋で休んでな」
 そう言って扉を閉める。ペンを取り出し、入ってこられないように施錠の魔法をかけた。いくら優秀だとカリムが褒め称えるジャミルでも解けないように魔法を構築して。同時に防音の魔法も掛ける。外から扉を叩いたり、カリムを呼んでいるであろうジャミルの声が部屋の中に聞こえてこないように。
 そうして、ようやくレオナはベッドに近づき、天蓋のカーテンを贈り物の包み紙を破らないような手つきで丁寧に開いた。そこには左手を目の高さまで掲げて、小指から伸びる赤い糸を見つめるカリムがいた。
「うーん、何なんだ? これ……ってレオナ?!」
 どうやらカーテンにも防音の魔法がかけられていたようでカリムは先ほどのジャミルとレオナのやりとりを聞いていなかったらしく、開かれたカーテンの隙間から入ってきた明かりでレオナの存在に気づいたようだ。
「レオナ、昼間は体調でも悪かったのか? 今は大丈夫か?」
「ああ……」
 カリムの心配そうな声を耳にしつつ、レオナは自分の糸が、カリムの左手の小指に伸びているのをその目で確認した。堪らずベッドに乗り上げカリムを抱きしめる。
 突然の抱擁に驚くカリムに頬擦りをする。抱きしめる腕に力が入る。少し苦しそうにカリムが声を上げたから、少しだけ腕の力を抜いてやった。
「突然どうしたんだ? オレ、何かやっちまったか?」
「お前は何もしてねぇよ。やったのは妖精だ」
「妖精……あ、もしかしてこの赤い糸に関係があるのか?」
 そう言って左手を見せるカリム。糸はひどく短くなっていて、レオナとカリムを繋いでいる。
「レオナの指にも糸が巻き付いてる! これ、呪いか何かなのか」
「いや? 運命の相手が誰か分かるようになる、可愛い可愛い悪戯らしいぜ?」
 左手を重ね合わせると、糸がゼロ距離になってカリムの指の糸とレオナの指の糸が混ざってしまったように直接繋がる。
「糸が繋がった者同士、キスをすると消える……いや、見えなくなるらしい。そんで、キスをした相手と一生を添い遂げられるんだってよ」
 この糸がどういうものなのか説明すると、カリムはぱちぱちと瞬いた。そしてどこか不安そうにレオナを見上げる。
「一生……って、でも、レオナ、オレたち……」
「妖精サマお墨付きの(まじな)いだ。雁字搦めな俺らはそいつに肖ってやろうじゃねぇか」
 何か言いたげなカリムの言葉を遮って、レオナは続けた。いずれ来る別れの時に怯えながら過ごすのは辞めだ。カリムがレオナの運命だと分かったから。
 運命なんてクソ喰らえだと、そう思って生きてきたが、こんな運命なら受け入れてやってもいい。
 右手でカリムの頬を包む。そして少し上を向かせると、レオナはカリムの唇に噛み付いた。
 すると赤い糸が伸びて、くるりくるりと二人を包み込むように円を描いた後、見えなくなってしまった。それでもレオナは口付けをやめず、カリムの口内を貪るように舌を伸ばした。
「ん……んんぅ……ふっ、ぁ、れぉな……」
 カリムの少し苦しそうな声を聞いてから唇を離す。カリムは肩で息をしながらレオナを見つめていた。その表情を見て、たとえ妖精の悪戯がなかったとしても、もうレオナはカリムのことを放せないのだと自覚した。
「一生、俺の傍にいろ」
「……オレもレオナの傍にいたい、けど、できるのかな」
「できか、じゃねぇ。どうにかする」
 口角を上げてカリムを見下ろせば、カリムはふにゃりといつもの快活な笑顔とは違う、レオナにしか見せない笑顔で頷いたのだった。畳む
    
レオカリ / 初恋ラプソディ



 レオナはナイトレイブンカレッジで開催されるマジカルシフトの大会に国賓として招かれ、観客席からその試合を見ていた。
 どの試合もファールぎりぎりな展開を繰り広げていたが、その分、魔法の展開や司令塔たちの多彩な戦略が見れて、飽きないどころか楽しくて仕方がない。
 国賓として招かれたと言われた時は面倒だと思ったけれど、試合を観賞している間は楽しくて仕方がなかった。
 準決勝の試合に入る前、休憩時間として長くはないが自由な時間が与えられた。
 そのタイミングで兄のファレナが、普段は見せないような表情で試合を見ていたレオナに気づいてか急に尋ねてきた。
「そんなにマジカルシフトに興味を持ったのか?」
 微笑ましいと言わんばかりの兄の問いに、レオナは一瞬だけ顎を引いて逡巡した後に頷いた。別に否定することでもない。レオナには魔法士の素質が十分にあったし、学生たちが使用する魔法がどんなものか見ているだけで楽しかったのは事実だ。
 しかしその答えに満足したように笑う兄に、居心地の悪さを覚えてレオナは立ち上がった。
「少し散歩してくる」
 そう言って夕焼けの草原の王族に用意されたスペースから抜け出すと、背後から飛んできた「護衛を連れて行け」と言う声を無視して走り出す。
 後ろから数人が追いかけてきそうな気配がしたが、不愉快だと睨みつけるだけで護衛たちは足を止めてしまった。
 レオナはまだ両手で数えられる年齢になったばかりだが、魔法の扱いに長けていて、何よりも強力なユニーク魔法を持っている。レオナが生まれつき持ったユニーク魔法――王者の咆哮は、どんなものでも砂に変えてしまう魔法だ。旱魃が続くサバンナでは忌み嫌われる力でもある。
 護衛や使用人たちは、その力を恐れている。気難しい第二王子の心持ちによって砂に変えられてしまわないかと怯えているのを、レオナは知っている。
 ……せっかく楽しんでいたのに、水を差された気がした。石造りの廊下を少し歩くと、試合の熱に当てられた肌に涼しい風が撫でる。気づけば周囲にはあまり人がおらず、関係者しか入ってはいないところにいたようだ。
 流石にここにいるのは良くないと判断したレオナは、踵を返そうとした時だった。視界の端にやたらきらきらした何かが入り込んだ。
 きらきらした何かとは、少年だった。外見からしてレオナよりも数歳ほど幼い。光を浴びれば白銀にも見えるだろうパールグレーの髪と、大きなガーネットかと見紛う赤い瞳。遠くから見ても分かる繊細な金の刺繍が施された豪奢な白い衣装を着て、頭にはまた宝石や羽を飾り付けられた白いターバンが巻かれている。
 もしここがスラム街だったら一瞬で攫われてしまいそうな少年は、とぼとぼと音がしそうな足取りで歩いている。その表情は暗く、どこか不安そうだった。
 あの服は熱砂の国で見られるものだ。大方、熱砂の国の王族か、王族に並ぶ商人の子供が迷ってしまっているのだろうと察せられた。
 あんなに綺麗に飾り立てられてるなら、よほど大事にされているのだろう。レオナは少年を見なかったことにしてその場から離れようかと考えていると、やや水気を帯びた一対の紅玉がレオナを捉える。
 レオナがしまった、と思った瞬間に少年はこちらに走り出していた。逃げてしまおうかとも思ったが、少年の瞳があまりに必死だったから立ち止まって待ってしまう。
「あ、あの……お前も迷ったのか?」
 いきなり話しかけてきておいて随分と不遜な言葉遣いだ。ただ言葉の端から悪気は一切感じないため、これが普段の話し方なのだろう。レオナは「はっ」と鼻で笑った。
「俺はテメェと違って迷子じゃねぇよ、お坊ちゃん」
「そ、そうか。ごめん」
 突き放すように言えば、少年は素直に謝った。短めな眉を不安げに歪め、ずいと距離を詰めてきたかと思えば、レオナの手を取った。突然、他人に手を触られてびくりとレオナの尻尾が反応する。
 両手できゅ、とレオナの手を掴む少年は、瞳をさらに水気帯びさせてレオナを見上げてくる。
「オレ……珍しいものが多くてついあちこち見てたら気がついたらここにいて……迷っちまったんだ」
 素直に迷子であると訴える少年はいっそ潔かった。歳が近そうだからと警戒心を抱いていないのだろうか。少年が掴む手は、どんなものでも干上がらせて砂にしてしまう手だと言うのに。
 久方ぶりに感じる他者の体温に一瞬だけ気を取られたが、これ以上付き合うつもりはないと手を振り払おうとするが少年も必死なのか手は離れなかった。
「頼む! どこか人がいる場所まで案内してくれないか? お礼はするから!」
 そう訴える少年に、レオナは耳を伏せた。――これは彼の望みを叶えてやらなければ手を離してくれそうにない。
 もうすぐ準決勝が始まる時間になる。仕方ない、とっとと人気のあるところに連れて行くかと溜息を吐く。
「分かった分かった。案内してやるから手を離せ」
 鬱陶しくて仕方がないと言うと少年はパッと花が咲くような笑顔を見せる。安心したように綻ぶ表情に、思わず見惚れた。不安そうに瞳を暗くしていた時はどこか人形のようなイメージを抱かせていたが、笑った表情は生き生きとしていて可愛らしい。
「ありがとう! オレはカリム! お前は?」
「俺は……レオンだ」
 咄嗟に出たのは適当な名前だった。どうせもう会わないだろう。ライオンの獣人の子供なんて、調べられたらすぐに本当はどういった存在か分かるだろうが、今はそんなこと関係ない。
「レオンか! レオンと出会えてよかった。オレ、本当にどうすればいいか困ってて……」
「へぇへぇ、そうかよ……。というか、手を離せって言ったよな?」
「逸れたら嫌だから、繋いでたい……駄目か?」
 あちこちに注意が散漫した結果、迷ってしまったからだろう。カリムは手を離したくないと訴える。
 他人に手を握られることに慣れていないレオナは、カリムを脅かして手を離させてやろうと思った。
「お前が掴んでいる手は、なんでも砂に変えちまう魔法の手なんだぜ。砂にされたくなかったら手を離せ」
「魔法? レオンは魔法が使えるのか?!」
 凄いな! と目を輝かせるカリムに、レオナは呆れる。人の話を聞いていたのか?
 触れたものは人でさえも砂に変えてしまう、恐ろしい手だ。夕焼けの草原を護衛する大人たちでさえ恐れる手だ。そんな手を、カリムは恐れもせず握ってくる。
「言っただろ、なんでも砂に変えちまう手だって。お前を砂にしちまうかもしれないぜ?」
 意地悪く言ってみるが、カリムは何を言われているか分からないとばかりに瞬きをする。そうして、怖がるどころか破顔した。
「なんでも砂にしちまう手なら、オレはもうとっくに砂になってるだろ? でもオレはまだ砂になってない。レオンの手は、オレを助けてくれる優しい手だ、こわくなんてないよ」
 カリムの素直な、そしてきっと心からの言葉に、レオナは動揺した。国では恐れられ、忌避される力をカリムは怖くないと言う。それどころかぎゅっと先ほどよりも力を込めてレオナの手を握りしめる。
 思わずレオナは呆然とカリムの顔を見つめる。カリムはどうしたんだ? と笑うばかりで、本当に怖くないらしい。右手に感じる柔らかい感触と子供らしい高い体温に、レオナの顔は熱くなった。そうだ、顔が熱く感じるのは手が熱いからだ。
「…………そうかよ」
 レオナは少しだけ力を入れてカリムの手を握り返した。
 会場内を少し歩けば、すぐにカリムを探しているであろう大人たちが声を上げてうろうろしているのが、レオナの鋭い聴覚が捉えた。早く教えてやればいいのに、レオナはすぐにはそれを教える気にならなかった。この手が離れてしまうのがどうしても惜しい、と思ってしまったのだ。
 しかし、距離もそう遠くない。カリムもやがて声に気づくだろう。その前に帰してやった方がレオナにとってもカリムにとっても良いに違いない。
 尻尾をふるりと揺らした後、カリムに向き合う。
「あっちの方からお前を呼ぶ声が聞こえるぞ」
 まだ声が聞こえていないカリムが「そうなのか?」と嬉しそうに声を上げる。これでカリムとはお別れだ。きっともう会うこともないだろう。
 カリムはとっとと行ってしまうかと思ったが、立ち止まったまま、何かを考えている。
「もうレオンとはお別れなのか?」
「……そうだな、もう会うことはないだろうな」
 レオナがそう言うと、カリムは悲しそうな顔をする。どうしてそんな表情をするのだと、レオナは聴きたくなった。
「そうだ、お礼……何が良いかな。あ、この宝石なんてどうだ?」
 そう言ってカリムはターバンの装飾の宝石を外そうとする。レオナはそれを止めて、珍しい色をした羽の方を掴んだ。
「宝石なんざいらねぇ。それよりも、こっちを寄越せ」
「そんなので良いのか?」
「こんなので良いんだよ」
 レオナは丁寧な手つきでカリムのターバンから羽を取る。赤と青のグラデーションがかった鮮やかな羽がレオナの手に落ちる。
「それじゃあレオン……オレ、行くな」
 最後にきゅう、と手を握られるとカリムの手が離れていく。それを追いたくなる衝動を抑え、レオナはカリムの体温が残る手を握りしめた。
「その羽を見て、オレのことを思い出してくれたら嬉しい! オレも、レオンのこと絶対に忘れないから!」
「別に覚えて追いてくれなくて良い。……さっさと行け、かなり心配してるぞ」
「わっ、まずい! それじゃあレオン、またいつか!」
 カリムは笑顔で言うと声の方向へ走り去っていった。だから、もう会うことはないと言ったのに。レオナは羽をくるりくるりと回して、誰にも見つからないようにポケットにしまった。
 ――その後、席に戻った時には準決勝試合が始まっていて、ファレナに心配されたが、レオナはそれを聞き流した。
 後々レオナはカリムのことを調べたが、カリムはなんとアジーム家の長子であることが分かった。やはりもう会うことはないだろうとレオナはカリムから貰った羽を見つめた。


  ◆


 それから九年後。なんの因果かナイトレイブンカレッジにカリムが編入してきた。レオナが必修科目の出席日数が足りずにダブった二年の年だった。
 レオナはカリムの存在をカリムが一年の頃から気づいていたが、積極的に会いに行こうとはしなかった。それが変わったのが、レオナが三年に上がり、カリムが二年にして寮長になった時だった。
 カリムはやはりというか、レオナのことは覚えていないようだった。忘れないと言ったくせに、随分と薄情だ。とは言っても、あの時のレオナは偽名を名乗ったし、気づかれなくても仕方がない。
 カリムはナイトレイブンカレッジの生徒に相応しくない朗らかな性格で、誰にでも親しげに接する。誰かが悩んでいたら同じように悩んで、誰かが辛いことがあったらそっと寄り添ってやる。そんなカリムはスカラビアの寮生からかなり慕われているようだった。
 レオナとカリムの関係はただの先輩と後輩、同じ寮長であるというくらいで、他に関わりはなかった。
 
 レオナが珍しく図書館で本を読んでいる時だった。レオナはカリムから貰った羽を、保存魔法までかけて大事にし、栞がわりに使っていた。
 そこへカリムが課題を抱えてやって来たのだ。
「よっ、レオナ。勉強か?」
「違ぇよ。どこかのばかと違ってただの読書だ」
「あはは……そう言われると何も言い返せないな」
 レオナの許可なく同じテーブルに課題を広げ始めるカリムに、レオナは何も言わなかった。言うだけ無駄だ。それに、カリムと一緒にいるのは悪くない。羽を撫でながらカリムの様子を窺う。
 相変わらず最上級のガーネットのような瞳が、今はノートと教科書に視線を落としている。窓から差し込む光りに照らされてきらきら光る髪も美しい。ターバンが少しよれているのは自分で巻いたからだろうか? レオナは本を読むことを放棄してカリムの観察をしていた。
 するとカリムの口がゆるゆるとなんとも言い難い、擽ったそうな形で結ばれる。
「あのな、レオナ。さすがにそこまで見られると緊張するぜ?」
 照れたように言うカリムに、そんな感情を持ってたのかと感心する。否、確かに見すぎていた自覚はあるが。
「簡単な課題に随分頭を悩ませてるから、ついつい見ちまったぜ。悪いなぁ?」
「それ絶対悪いって思ってないだろ! ……ん? その羽、」
 レオナが撫でていた羽にカリムは目を留める。するとカリムは目を瞠った。まるで信じられないものを見たとでも言うような表情だ。それからカリムの視線がゆっくりとレオナの顔へと移る。
「レオン……?」
 どこか震えた声だった。そんなことよりも、カリムの言ったことがレオナ重要だった。かつてレオナがカリムに教えた名前だ。レオナも思わず瞠目する。
 忘れられていたのだと思っていた。あの時に教えた偽名を、まさか覚えているなんて。寮長として初めて会った時、カリムはレオナに気付かなかったのに。
「な……んだよ、レオナがレオンだったのか!?」
「……カリム、静かにしろ」
「もっと早く言ってくれれば良かったのに! そうしたらオレ……!」
「おい……っ」
 気持ちが抑えきれないとばかりに立ち上がってレオナに話しかけるカリムを止めようと声を上げると、ごほんと態とらしい咳払いの音が響いた。
 音の方を向けば、図書館の司書がいたし、複数の視線がこちらに向いていた。
「図書館ではお静かに」
 そうしてレオナとカリムは仲良く図書館から追い出された。よくぞ悪名高いサバナクロー寮長と、色々と話題を事欠かないスカラビア寮長が揃っているところに怖気もなくやってきてキビキビと二人を追い出したものだ。それくらい肝が据わっていないとナイトレイブンカレッジの図書館で司書などできないのだろう。
 課題を抱えたカリムが申し訳なさそうにレオナに首を垂れている。
「悪い……オレが煩くしちまったから……」
「全くだ……」
「で、でもレオナがレオンだってことをもっと早く教えてくれてれば良かったのに! レオナはオレのこと気付いてただろ?」
 カリムの言うとおり、レオナはカリムを覚えていたし気付いていた。カリムは何も変わっていなかったから、すぐに気付いた。それでいて何も言わないことを選択した。馬鹿みたいに言われたとおり、羽を見るたびにカリムのことを思い出していたくせに。なんとなくバツが悪くなり視線を逸らした。
 そんなレオナのことに気付いていないのか、カリムはレオナの前に立つ。正面で向き合い、カリムはレオナにまるで縋るように近づく。
「オレ……レオナのこと全然気付けなかった……絶対に忘れないって言ったのに、ごめん」
「――チッ、別に謝るようなことじゃねぇだろ」
「だってレオナはその羽を大事にしてくれてるだろ? オレのこと、忘れずにいてくれたってことだ」
 しょんぼりと項垂れるカリムの言葉にレオナは何も返せなかった。確かにちゃんと顔を合わせた時に全く気付かれなかったことには気落ちしたが、十年も前のことだから忘れられてても仕方ないことだと。普通なら忘れていて当然だ、ほんの数分だけ一緒にいた相手のことを覚えているなんて、分かるわけがない。
「オレだってレオンのこと、忘れたことはなかったのに、またなって言ったのに」
 悲しそうに肩を落とすカリムにレオナは焦る。
「なんだってそんなに気にするんだよ……分からねぇな。それに俺はあの時にもう会うことはないって言っただろ」
「でもまたこうやって出会えたんだ、奇跡みたいだろ? それなのにオレだけ……違うんだ、言い訳させてくれ!」
 言い訳とは、レオナのことをすぐに気付けなかったことに対する言い訳か。ここまで来たら話を聞いてやらないとカリムの気がすまないだろう。仕方なくその言い訳とやらを聞いてやることにした。――けれど、その言い訳を聞くことをレオナはすぐに後悔することになる。
「十年前に会った時よりもレオナがずっと綺麗だったから気付けなかったんだ! 悪い!」
 そう言って頭を下げるカリムに、レオナは何を言ってるんだと頭を抱えたくなった。だが、カリムの言い訳は続く。
「初めて会った時も綺麗な子だと思ってたけど、レオナと寮長として顔を合わせた時にレオナほど綺麗な人も見たことないなって……でもよく考えたらもともと綺麗な子だったんだからもっと綺麗になるのは当たり前だよなぁ。もしかしたら目元の傷があったから気付けなかったのかも……オレを助けてくれた時はなかったよな? あ、傷ができた理由とかを聞きたいわけじゃないんだ。それから――」
「もういいからそれ以上何も言うな!」
 カリムの口を抑え、言葉を遮る。レオナの手袋越しに不満を訴えるカリムの抗議の声が上がったが、これ以上は聞いていられないとばかりに耳を伏せた。なんだその理由は、綺麗だったから気付かなかった、だと? もしも今、カリムから手を離したらレオナを讃える言葉しか出てこない気がして手が離せなかった。
 尻尾が落ち着きなくゆらゆらと揺れる。国でよく聞くおべっかだと思いたかったが、カリムは思考と発言がそのまま繋がっているような人間だ。つまりはカリムは心から思っていることを言っている。それがレオナを落ち着かなくさせたし、顔を熱くさせた。
「んーっ、むーっ!」
「……お前の言いたいことはよく分かったからこれ以上言い訳を続けようとするな、絶対にだ」
 グルル、と威嚇するように喉を鳴らすとカリムは不思議そうに瞬きを繰り返した後にそれを了承した。警戒しながら手を離すとカリムはぷはぁっ、と息を吐き出した。
「分かってくれたか?」
「ああ……嫌ってほど分かったぜ。お前が本当に馬鹿だってことがな」
「なんでだ!?」
 レオナの言葉に驚くカリムだが、否定はしなかった。馬鹿という自覚はあるらしい。そんな自覚こそ捨ててしまえとレオナは思う。
「でも良かったぜ、レオナがレオンだって分かって」
 やりかけの課題を抱え直したカリムが嬉しそうに言う。
「何がそんなに嬉しいんだよ。感動の再会でもしたかったのか?」
 だから、どうしてそんなに嬉しいのかと問うた。それに対して、またしても爆弾を落とされるなんてことに気づくことなく。
「オレの初恋はレオナだから!」
 頬を淡く染め、花ひらくような笑顔を見せたカリムは、言いたいことを言いたいだけ言ったとばかりに踵を返した。
「オレは寮に戻って課題の続きをやるよ。じゃあまたな、レオナ!」
 軽やかな足取りで鏡舎に向かっていくカリムを、レオナは停止した思考で見送ることしかできない。

 ――あいつはさっき、なんて言った?

  レオナは両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。ああ、なんだ、なんて奴なのだ、あいつは。未だ初恋を拗らせている人間に対して、なんてことを言うのか!
「くそ、絶対に逃さねぇからな……」
 サマーグリーンの瞳が、ぎらりと光る。捨てようと何度も思って捨てられなかった想いを拾い上げられ、それが一気に熱を持つのを感じた。
畳む
    
レオカリ / 生贄なレオナと神様なカリム設定 / 砂上の運命


 カラカラに乾いてひび割れた大地に横たわり、世界に対する呪詛を紡ぐ。
 何が神への生贄だ、神なんているわけがない。こんな国に雨なんて降るわけがない。
 水の気配なんて欠片もない洞窟の最奥。岩が重なり合ってできたような洞窟で、岩の隙間からレオナを照らすように月明かりが差し込んでくるのが鬱陶しくて仕方がなかった。乾いた唇で、ちっ、と今にもかき消えそうな舌打ちをした。

 雨が降らなくなってもうどれだけの月が過ぎたか。元からこの国は雨が少ない土地だったが、それにしたって酷い。
 どれだけ雨乞いの儀式を行なっても雲ひとつない晴天は変わらず。干上がった水場が両手で数えきれなくなった頃、神の怒りだと誰かが言い始めた。どんなものでも乾いた砂に変えてしまうユニーク魔法を持つ忌み子が王族にいるのが間違いだと民達が吠え出したのは。民どころか王宮にいる者までもレオナの姿を見てはひそひそと、ライオンの獣人であるレオナには聞こえている声量で嘯く。
 ――人さえも砂に変えてしまうなんて恐ろしい。
 ――生まれつき砂に愛されている、呪われた御子だ。
 ――レオナ様がお生まれになってから、雨が降らない日が多くなった気がする。
 最後なんて完全に思い込みだ。レオナはまだ齢十歳だが、頭がよく過去にどれだけ雨が降ったかなどの記録を調べてみたが、レオナが生まれた年以降も他のどの年とも雨の降った回数は似たり寄ったりだった。
 今年が異様に雨が降らないだけだ。しかし、自然の水が手に入らなくなった国民達からすればそんなことは関係のないことなのだろう。
 第二王子を神への生贄にしろ、などと。不敬極まりない発言が許されてしまう程、民は追い詰められていた。
 レオナの父や兄は必死に民を止めていたが、このままでは暴動が起きかねない。王宮に民が押し寄せ、レオナを無理に何処かへと連れて行きどこかで殺される可能性が上がってきた。日を追うごとに父や兄の焦燥に駆られて行くのが分かった。
 だから、レオナから言ってやったのだ。
「わたしが神の贄になりましょう」

 それからは早かった。神に相応しいようにと貴重な水を惜しみなく使って身を整えられ、綺麗な服や――魔力を封じるアクセサリなどで着飾られ、そうして両腕と足を後ろできつく縄で縛られて神聖だといわれている洞窟に連れてこられたのは。
 レオナを最奥の部屋に連れてきて横たわらせた者たちは、何かを成し遂げたとでも言うような高揚感に包まれながらレオナを置いて帰って行った。
 最後の別れの際、父と兄は泣きながらレオナに謝った。レオナはそれを何の感情もなく見下ろしていた。
 なにも二人を思ってあんなことを言ったわけではない。神などいないのだと、証明してやりたかった。自分が生贄になったからと言って現状は変わらないのだと教えてやりたかった。逃げるつもりなどなかったが、まさか魔力封じの首輪を着けらるとは思っていなかったが。そこだけが計算違いだ。
 レオナが洞窟に捧げられてから三日間、未だ雨は降らない。もちろん神なんてものも現れない。空腹で腹が痛み、喉も口の中もからからに乾いて唇はひび割れている。
 それでも、どうか雨なんて降ってくれるなよ、と。そんな願いを抱きながら瞼を閉じる。眠ってしまえば空腹も喉の渇きも気にならない。砂埃混じりの空気を深く吸い込み、同じように深く吐き出す。腹はぐるぐると鳴るし、乾いた空気が喉を傷めたがそんなことは気にしない。
 ――そんな時だった。シャラン、と金属が擦れ合うような音が近くでしたのは。
「おーい、大丈夫か?」
 レオナ以外誰もいない筈の場所に、聞いたことのない声が響いた。レオナは目を見開き、声の主を探そうとしたが、探すまでもなくレオナの目の前にしゃがみ込んでいた。
 白銀の髪にガーネットのような真っ赤で大きな瞳、褐色の肌。二の腕あたりには白い紋様が刻まれている。天井から差し込まれる月光を浴びて、きらきらと輝いているように思えた。見たことがない人間だった。
「……誰だ、テメェは」
「オレか? 悪いな、簡単には名乗れないんだ」
 掠れた声で問えば、男は困ったように短めの眉をハの字にした。レオナはそんな男の様子に「そうじゃねぇ」と渇き切って喋りにくい口を動かした。
「何者だって、聞いてるんだ」
「ん? ああ、それなら答えられるぜ! オレは所謂、神サマってやつだな!」
「は……ぁ? 神……?」
 頭をガツンと殴られた気分だった。神なんて存在しないと証明するために生贄になったのに、まさか本当に神が現れるなんて。そんな馬鹿げたことがあってたまるか。
「神なんて、いるわけねぇだろ」
 けほり、と咳き込みながら言う。しかし男は少し難しい顔をしながら首を振った。
「そんなことはないぜ? 現に、オレは声が聞こえたからここに来たんだ」
「声? まさか、雨乞いを願う声でも、聞こえたのか?」
 己を嘲るように男に言うと、男はこてん、と音がしそうに首を傾げた。まるでそんなこと聞いたことでもないようにと。
「雨が欲しいのか? でもオレが聞いた声は、雨なんか降るなって声だったけど」
 不思議そうに腕を組む男に、レオナは動揺した。それは自分が願っていた声だ。
 第二王子を呪われた子と決めつけ、生贄に捧げてしまえと訴えた民や役人たちに対する恨みを、雨が降らないことを願うことで晴らしていた。このまま雨が降らずに朽ちていけばいい。そう思っていた。
「この国は雨が欲しいのか? それとも、欲しくないのか?」
「……もしも欲しいと言ったら、お前はそれを出来るのか」
 不思議そうに呟いた男に、レオナは問いかけた。声が震えかけたのは隠せただろうか。酷く気弱になっていることを自覚しながら男の答えを待つ。
「雨を降らせることくらいならできるぜ!」
 男の答えはレオナに絶望を齎した。目の前が真っ暗になったような気さえした。だが、続いた男の言葉に顔をあげることとなる。
「うーん、でもなぁ。この国に雨を降らすことはできないな」
 難しい顔で、どこか申し訳なさそうに言う。それはどういうことだと聞こうとしたところで、レオナは咳き込んだ。さっきから乾いた喉で喋っていたから無理が出たのか。そんなレオナを見た男は慌てたようにレオナを起き上がらせる。
 それから縛られた両手足の縄を見て困ったような表情をしたあと、男はくるりと指を回した。それだけで縄が消えてなくなり、手足が自由になる。
 同じ体勢でいたせいで手足の痺れが酷いが、そんなことよりも先ほど男がしたことが気になった。縄を解いたのは魔法だろうか? それにしては魔力を感じなかった。
「随分と手が汚れてるなぁ。まずは洗わないといけないな」
 手を差し出せと言う男に、恐る恐る両手を出す。まだ魔力封じの首輪は取れていない。何があっても相手を砂にしてやることもできないのが癪だ。
 何をされるのか、と思っていると、レオナの両手の上に水球が現れ、そこから綺麗な水が溢れ出した。重力に従い落ちていく水が、レオナの手を濡らす。勿体無さから掬おうと両手を器の形にしたが、男がそれを叱る。
「まずはちゃんと手を洗うんだぜ! ほら、両手を合わせてゴシゴシって擦るんだ」
 レオナの手を掴んで器の形を壊すと、一緒になって手を洗う。水はとめどなく溢れ、レオナは乾き切った口から唾液が滲みて出てくるのが分かった。
「よし、そろそろ綺麗になったかな? ほら、喉が乾いてるんだろ。いくらでも水を飲んでくれていいんだぜ!」
 男はレオナの手を離すとにこりと笑って見せた。手が自由になった瞬間、レオナは勢いよく水に口を付けた。喉を鳴らして水を飲み込む。水に毒が含まれているかどうかなんて気にならなかった。乾いていた喉が潤されていく。
 男はにこにこと笑いレオナが必死に水を飲むのを見守っている。喉が潤ったことで周りに気をやれるようになったレオナは、慌てて水から口を離した。レオナが水から離れたタイミングで水球が小さくなっていき、なくなってしまう。
 泥水でも、虫が浮かんでもいない綺麗な水だった。喉が乾いていたからかもしれないが、味もとびきり美味しくて、その水球がなくなってしまったのが一瞬惜しくなる。
「美味かっただろ? 随分と喉が乾いてたんだなぁ」
「……この国には雨を降らせられないってどう言うことだ」
 先ほど聞けなかったことを漸く口にする。男はきょとんと瞬くと、「うーん」と唸り出した。
「ここはオレの領域じゃないんだ。もしオレの領域だったり、誰の領域でもない場所なら雨を降らすこともできるんだけどなぁ。さっきみたいに小さな水球を出すくらいしかできないぜ」
「誰の領域でもない……と言うことは、この国には神がいるのか?」
「んー? そうだな。今は不在にしてるみたいだけど、いるにはいるみたいだな。この感じだと、数十年くらいはいなさそうだ。力になれなくてごめんなぁ」
 もう数十年も神は不在にしている。つまり、レオナが生まれるよりもずっと前からこの国には神なんていなかった。
「ハ……ハハハハハッ!!」
 何が神の怒りだ、この国はとっくのとうに神から見放されていたんじゃないか。――何が忌み子だ、呪われた子だ。勝手に決めつけて、生贄に祀り上げて、結局は何の意味もなかった!
 突然笑い出したレオナに男は驚いたように目を瞬き、大丈夫かとオロオロしている。そんな男を無視して、さらに問いかける。
「ハハハ、ハッ、神サマよォ、この国に雨が降りそうかどうかなんてのは分かるか?」
「へっ、雨か? そうだなぁ、水の精霊の気配が遠いから、次の雨が降るのは数ヶ月は先になるんじゃないか」
 更に笑いが込み上がるかと思った。次は一体誰を生贄にするつもりだろうか? 皮肉げに口を歪ませる。
「安心しろよ、どうせここの神もちょっとしたバカンスに出てるだけだって! 戻ってきたらちゃんと加護を与えてくれるだろ」
 うんうんと頷く男に、ちょっとしたバカンスで数十年も加護を与えられないなんて、人種にとっては酷な話だとは伝えなかった。神にとって数十年なんて瞬きをする瞬間のようなものだろう。
 とにかく上機嫌になったレオナは立ち上がろうと足に力を入れようとして、結局立ち上がることができなかった。ぐらりと傾いた体を男が抱き止める。水分は補給できたが、未だ空腹のせいでうまく体に力が入らないのだ。ぐうぅと腹から音が鳴る。喉の渇きが潤ったら他の欲求が顔を出してきたようだ。
 男が微笑ましそうにレオナの背中を叩いて「腹が減ってるのかぁ」と笑うものだから、必死に抵抗しようとしたが腕に力が入らない。諦めて抱きしめられていると、男はレオナの顔を覗き込んできた。
「何か食えばちゃんと家に帰れそうか?」
 なんて呑気な質問だろう。両手足を縛られて放置されていた時点で察せられないのか。レオナは呆れたように目を眇めて縄で縛られた痕を男に見せる。
「俺は生贄としてここで放置されてたんだ。帰れる場所なんてあるわけないだろ」
「こっ、ここの神は子供を供えさせるのか? 随分と怖い神なんだな!?」
 男は驚きつつ、今度はレオナを抱えたままゆらゆらと揺れ出した。何やら考え込んでいるようだが、抱き込みながらゆらゆら揺れるのはやめて欲しいとレオナは男の薄い胸を叩く。すると「そうだ!」と男が何か閃いたように声を上げた。
「ならうちに来るか!」
「……は?」
「行く宛がないんだろ? だったらオレのところに来ればいい!」
「おい、待て。話が急すぎるだろ――おい!」
 それが良い! と言うや否や、レオナの腕を掴んで男は立ち上がった。レオナの意思などまるで無視だ。神というのは随分と勝手な存在らしい。
 男が歩き出すと、ひび割れていた地面から一変して真っ白な空間が広がった。突然景色が変わったことにレオナは驚き、男に手を引かれるままついて行くしかない。
 ふと男は振り返り、レオナを見下ろして口を開いた。
「そういえば、お前の名前はなんて言うんだ?」
 きらきら輝く紅玉がレオナを見下ろす。そこには悪意も嫌悪、敵意も何もなくて、そんな風に見てくれるのは家族か侍従長のキファジぐらいだった。だからだろうか、いつもならそんな質問は軽く無視するのに、するりと名前が出てきた。
「……レオナだ」
 もう王族ではない。だからキングスカラーの姓は名乗らなず、名前だけ伝えた。すると男は嬉しそうに微笑む。
「レオナか! 良い名前だなぁ。オレの名前はカリム。ここでは名前が道標になるから、もし迷ったらオレの名前を呼ぶんだぞ」
「……簡単には名乗れないんじゃなかったのか?」
「ここはもう神域だからな。いくらでも呼んでくれていいぜ!」
 あ、でも現世では気安く呼んじゃダメだからな。と付け加えるカリムに、レオナはどこか呆れたようにため息を吐いた。
 不本意にも手を繋いだまま白い世界を暫く歩いていると景色が変わってきた。
 地面はレオナにとって慣れ親しんだ砂に青い空。少し離れたところに玉ねぎ型の屋根が特徴の白亜の宮殿が見える。レオナの国では見たことがない様式の建物だ。それもレオナが暮らしていた王宮よりも大きいかもしれない。
 思わず見上げていると、不意に浮遊感に襲われる。カリムに抱き上げられたのだ。
「今日からここがレオナの家で、オレがレオナの家族になるんだ。よろしくな、レオナ!」
 間近で満面の笑顔を浮かべるカリムに、レオナは目を瞠る。来た道を振り返るが真っ白な道はもうなくなっていた。
 生贄になると決めた時、もう帰ることはないだろうと思っていたが、それでもほんの少しの郷愁に駆られた。だがそんなことは気にしていられない。
 まさか本当に神が現れて、殺されることなく生きているのなら、精々その生にしがみ付いてやる。どんなに生き汚いと言われようと、そうすると決めた。
 そのためにはこのお人好しな神だって利用してやろう。
「……ああ、よろしくな。カリム」
 素直にそう言い返してやれば、カリムは殊更嬉しそうに微笑むのだった。畳む
    
フロカリ / Dom/Subユニバースパロディ / Color

「あー……ダリィ」
廊下の壁に体を預けながらなんとか歩くフロイドはそれだけ呟いた。
実際彼の体の状態をこの上なく表した言葉である。倦怠感があり、体が重い。それもこれも、ジェイドが山を愛する会の活動と言って休みなのに早々と朝から山登りに行ってしまったせいである。
そろそろ不調を来しそうだからプレイしてくれと昨夜のうちに頼んでいたと言うのに。

この世界には男女の性別とは異なる、ダイナミクスと呼ばれる性がある。その性はDomとSubとNutral、稀にSwitchと呼ばれる四つに分かれている。
DomはSubに対し、支配したいという欲求を持っている。支配と言っても躾やお仕置きをしたい、褒めてあげたい、世話がしたいなど、その欲求は多岐に渡る。
逆にSubはDomに対して支配されたいという欲求がある。Domとは逆に躾されたりお仕置きされたり、褒められたり世話されたりなどの欲求。
DomとSubはコマンドによるプレイをすることによって欲求を満たす。逆にいえば欲求が満たされないと、体調不良を起こしたり、下手をすれば死に至ることもあるらしい。
NutralはDomでもSubでもない、いわゆる普通の人間だ。ダイナミクスによる影響を受けない。ちなみにSwitchはDomにもSubにもなれると言う稀な存在である。
そしてフロイドはSubだった。躾されたいだのお仕置きされたいだのと思ったことは欠片もないが、定期的にプレイしなければ体調を崩した。
フロイドは自分のダイナミクスを死ぬほど恨んだが――よりにもよって支配されたい側の性になるなんて――、フロイドのSubとしてのランクが高いため大抵のDomのコマンドは効かないことと、幸い双子のジェイドが同ランクのDomだったこともあり、ジェイド相手に定期的にプレイすることで体調管理を行なっていた。
フロイドがSubであることを知っているのは家族とアズールくらいである。他の存在にこのことがバレたら舌を噛んで死んでしまいたくなるだろう。弱みを他人に晒すのは死に繋がるし、何よりDomだと思われているであろうのに実はSubだったと知られるのはプライドが許さなかった。アズールに知られるのだって本当は嫌だったくらいだ。
なのに、この現状。欲求が満たされず、体調に異常が来している。この状態でサムの購買部に行き、抑制剤を買えば、フロイドがSubであると言うことがバレてしまう。
普段から抑制剤を持ち歩かない己を一瞬だけ恨んだが、突発的に山に飛び出して行った片割れの方が恨めしい。
自室に戻り、最悪な展開――サブドロップに陥ること――にならないよう体を休めていようかと踵を返そうとした時だった。
いつもは軽い足が鉛のように重く感じて、うまく体を運べなかった。そうして廊下に倒れ込んでしまう。冷たい床に伏せって、短く息を吐く。これはかなりまずい状況だとフロイドは思った。
限界になるまで我慢せず、もっと早くジェイドにプレイしてもらうよう頼めばよかった。なんなら昨夜のうちに済ませておけばこんなことにはならないのに。
こんなことになるくらいなら「キノコを食べてください」と言うコマンドくらい聞いておけばよかったと後悔していると、パタパタと軽い足音が近づいてきた。
「フロイド! どうしたんだ!?」
聞こえたのはフロイドが普段、ラッコちゃんと言う愛称で呼んでいる相手、カリム・アル=アジームだった。
たまたま通りかかったのだろう。倒れている巨体に驚きと心配の色を混ぜた表情でカリムは膝をついた。
「……別にぃ、なんでもないし……」
「なんでもないわけないだろ! どうしたんだ? 腹が痛いのか?」
心配そうに顔を覗き込もうとしてくるカリムから顔を背けようとして失敗する。指先を動かすのも億劫だ。このままではサブドロップに陥るのも時間の問題かもしれない。
カリムはポケットの中を漁りながら薬を探しているようだが、見当違いも甚だしい。腹痛くらいで倒れるわけないだろ、と心の中で毒づいた。
「腹、痛ぇわけじゃねぇから……とにかくジェイド、呼んできて」
カリムはフロイドの言葉を聞くと即座にスマホを取り出し、どこかに電話をかける。だが、すぐに困った顔をした。
「ごめんフロイド、ジェイドに繋がらない……」
どこまで山を登っているのかとフロイドは舌打ちしたくなったが、それすらやる体力がない。保健室に連れて行ってもらおうにもカリムの体格でフロイドを連れていくことなどできないだろうし、Domを呼んでくれと頼むなんてもってのほか。八方塞がりだ。
「フロイド……顔色が本当に悪い、どうしたんだ? オレはどうすればいい? “教えてくれ“」
カリムがそう言った瞬間、フロイドの口からするりと言葉が溢れた。
「オレぇ、Sub、なんだよねぇ……。そんで今、サブドロップ起こしかけてんの……」
言うつもりなんてなかったのに、言ってしまった。一体なぜ、と考えるよりも早く、カリムはどこか安心したように微笑んで、フロイドの頭に手を乗せて、優しく撫でる。
「そっか、教えてくれてありがとうな。“良い子だ“」
カリムが良い子と言いながら頭を撫でる、ただそれだけでさっきまで重たくて仕方なかった体が一瞬にして軽くなる。それどころか身体中に血が巡って、まるでぬるま湯に使っているような暖かさと多幸感に溺れそうになる。
サブドロップに陥りかけていたのに、一転してサブスペースに入りかけていることをフロイドは自覚した。
「……ぇ、あ……?」
頭を上げて混乱するフロイドに、カリムは眉をハの字にして申し訳なさそうにする。
「ごめんなフロイド、コマンドを使ったつもりはないんだけど、結果的にそうなっちゃったみたいだな。でも応急処置だと思って我慢してくれ」
相手の了承を得ずにプレイすることはマナー違反だ。しかしそんなことはどうでも良い。兎にも角にも心地がいい。天国があったとすればここにあったのかと思うほど、フロイドは幸せな感覚に包まれていた。
「ラッコちゃん……Domなの……?」
「そうだぜ! 家の時の癖が出ちまったのかな。本当にごめんな、フロイド」
ダイナミクスを他人に知られるのを嫌がる人間はたくさんいる。カリムはフロイドのダイナミクスを知らなかったから、フロイドも知られたくない方だったんだろうと判断して謝った。
しかしカリムがDomだったとしても、フロイドも並のランクのSubではない。いくらサブドロップに陥りかけていたからといって、つい出てしまった程度のコマンドに応えるなんてことはしない。
けれどカリムの言葉には抗えなかった。抗うと言う考えすら浮かぶ暇もなくただ応えていた。それだけでカリムが最高ランクのDomだとわかる。さすがはアジーム家の嫡男である。血筋からして違う。
(やば……これ、ハマりそう……)
“ハマりそう“。そう危惧したフロイドの予感は後に当たることになる。

「“こちらに来てください“」
「……」
「おや? どうしたんですか、フロイド。また体調を崩しますよ」
体調管理のためにジェイドとプレイを試みた時だった。フロイドはジェイドのコマンドに対してぴくりとも反応しなかった。
いつもなら嫌々ながらジェイドの方へと向かい、大袈裟に「さすが僕の片割れ、よく出来ました」と褒められるのだが、フロイドの足は動こうとしなかった。
「どうしたんでしょうね、これでは体調管理ができませんよ」
「……この間さ、ラッコちゃんに助けられたって言ったじゃん」
「ああ、サブドロップに陥りかけたらしいですね」
「他人事みてぇに言うなし! ジェイドが朝から山登りに行ったのが原因なんだよ!」
「その節はご迷惑をおかけしました……それで?」
それで、と促してくるジェイドは心配そうにしていた。不可抗力とは言えフロイドが自分のダイナミクスをカリムにバレてしまったことを気にしているのではないかとか、さすがに罪悪感を覚えているらしい。
フロイドは言い難そうに視線を逸らせながら、その時の詳細を語ることにした。
「多分だけどさ、ラッコちゃん最高クラスのDomなんだよね」
「僕たちよりもランクが上、と言うことですか」
「そー。そんで、ラッコちゃんにとってコマンドのつもりないコマンドに応えたら、サブスペースに入りかけて……」
「……カリムさんのDomとしてのクラスの高さがわかりました」
つまりたった一回のコマンドでジェイドのコマンドでは物足りなくなってしまったのだ。カリムのコマンドに応え、褒められると言う多幸感を一度でも覚えてしまったら、まるで麻薬のようにそれしか受け付けなくなってしまった。
「困りましたねぇ」
「マジでジェイドのせいだかんな! どうすんのさ、これ!」
「どうすると言われましても、カリムさんにプレイを頼むしかないんじゃないですか?」
それこそ他人事のように言うジェイドに、フロイドは項垂れた。言葉にしなかっただけで、フロイドもそれしかないことはわかっていた。
「とりあえずアズールに相談しに行きましょうか」
「ラッコちゃんに借り作るの絶対嫌がりそうなんだけど」
「けれどフロイドの生死に関わります。そんなこと言ってられませんよ」
そうと決まれば即行動。双子はアズールの部屋に行き、ことの顛末を語った。
寮長ゆえの一人部屋のため他人に聞かれる心配はないと言うことでフロイドは語った。カリムのコマンドを聞いたときいかに素晴らしい体験をしたか。もう並大抵のDomのコマンドを聞く気にはならないだとか。
「頭の痛い話を持ってこないでください……」
「こっちだって頭が痛いですよ」
「泣くふりしても楽しんでるってわかってんだよ」
メソメソとあからさまに悲しそうな表情を作るジェイドに対し、フロイドはその背中を蹴った。
Nutralのアズールはサブスペースに入る悦楽を知らないが、フロイドがジェイドのコマンドを聞かなかったと聞いて驚いた。今まで二人でなんとかしてきたのに、それが破壊されてしまうなんて。
なんというか、カリムという存在はあらゆる意味で規格外だ。
「仕方ないですね……カリムさんにはフロイドの責任を取ってもらうということで話をつけましょう」
「プレイして“もらう“じゃなくて責任取ってもらうなんだ」
借りを作るのではなくむしろ被害者ぶって強請るというわけか、と納得顔のフロイド。ジェイドも「さすがアズールですね」と褒めている。
「実際、勝手に向こうがコマンドを使ってフロイドがカリムさん以外のコマンドを聴けなくなってしまったんだから間違いではありません! 人をガメツイ奴のように言うのはやめなさい!」
それもそうかとフロイドは頷いて「じゃあどうするのさ」と問う。
「まずジャミルさんに話を通します」
「え、ウミヘビくんにオレのダイナミクス知られんの嫌なんだけど」
「陸の言葉に将を射んと欲すれば先ず馬を射よと言います。カリムさんのスケジュールを管理しているジャミルさんには話を通しておいた方が良いでしょう。カリムさんが突然実家の用事で、などと帰られても困ります。ちゃんと定期的にプレイしてもらうよう手筈を整えるならジャミルさんに話を通すことが必須です」
「うへぇめんどくせー」
「けれどアズールの言っていることも正しいです。ところでジャミルさんのダイナミクスは?」
「Nutralだと言っていました」
「言ってたっていうかそれ聞き出したんだよね?」
アズールに対してジャミルがダイナミクスの話をするわけがないと踏んだフロイドはそう聞いてみたがスルーされた。
「それではスカラビアのお二人を明日、モストロラウンジのVIPルームに呼び出しましょう」
話はまとまったと、アズールは双子を部屋から追い出す。追い出された二人は仕方なく部屋に戻り、明日のためにとっとと眠ることにした。

翌日、放課後。
うまいことカリムとジャミルをモストロラウンジのVIPルームに呼び出すことに成功したアズールはニコニコと胡散臭い笑顔で二人を迎えた。
「ようこそ、カリムさん。ジャミルさん」
「おう、なんか大事な用があるんだよな? オレにできることならなんでも言ってくれ!」
「カリム、軽率なことを言うな。どうせ碌なことじゃない」
「それがそうでもないんですよ、ジャミルさん」
アズールの後ろに控えていたジェイド一歩前に出る。190の巨躯に見下ろされるのは威圧感がある。ジャミルは少し体を引きつつ、「なんだ」と答えた。
「僕のダイナミクスはDomでして」
突然、自分のダイナミクスを晒したジェイドに、ジャミルは驚く。ダイナミクスを晒すのはそれだけデリケートなことなのだ。
「そしてフロイドのダイナミクスはSubです」
同じようにアズールの後ろに控えていたフロイドのダイナミクスも晒す。そこで、ジャミルは何があったかを察した。
そういえば最近、カリムはフロイドが体調を崩していたところに出会し、ジャミルの薬を使って助けてやったと言ってきたことがあったなとジャミルは思い返す。
「つまり、フロイドとカリムの定期的なプレイがお望みだと?」
「……さすがジャミルさん。というか話が早すぎじゃありませんか? どこかで見ていたんですか?」
「いや、アジーム家ではよくあることだ」
よくあること。いやよくあって堪るか、とオクタヴィネルの三人はジャミルに視線を集める。
「アジーム家の使用人にもSubは多い。そして、そのSubはカリムのコマンドにもならないコマンドを聞き、リワードをもらう。……どうなるかわかるか?」
「……つまり、アジーム家にもカリムさんのコマンドしか受け付けないSubが大量にいる、と……」
「そう言うことだ。ちなみにカリムは定期的に家に帰って使用人たちを一箇所に集めてプレイを行っている」
うわぁ、とドン引きなオクタヴィネルの三人とは裏腹に、カリムは何が起こっているのかわからないといった表情でVIPルームに集まったメンツの顔を見渡している。
そんなカリムにため息を吐きつつ、ジャミルは丁寧に説明してやる。
「いいか、カリム。お前が軽率に出したコマンドのせいでフロイドがお前のコマンド以外受け付けなくなった。だからフロイドと定期的なプレイが必要だ。フロイドの生死に関わることだからオレたちに断る権利はない」
「えっ、そんなことになってたのか?! フロイド、本当にごめん!」
「そこまでは言ってないけど……別に謝んなくていーよ。ラッコちゃんがいてくれたおかげで助かったし」
そしてまた危機を迎えているのだが。心から申し訳ないと思っていることがカリムからひしひしと伝わるため、フロイドは逆に感謝の意を表した。
あの時、カリムが通り掛からなかったら、本当に死んでいたかもしれないのだ。だからカリムのコマンドしか受け付けなくなってしまったとしても安いものだろう。……多分。
ジャミルがここまで協力的なのが不気味だが、これで定期的なプレイを確約できたことになる。アズールとジェイドは良かったですねとフロイドに声をかけ、ジャミルはどれくらいの頻度でプレイが必要か聞いてきた。
カリムはというとVIPルームを訪れた時に出されたモストロラウンジの期間限定ジュースを飲んでいる。軽くカオスである。フロイドは遠い目をしながらプレイの頻度のすり合わせなどをすることになった。
そうしてとりあえず、今。早速プレイしたいと言って、フロイドとカリムだけがVIPルームに残り、二人きりになっている。
カリムにコマンドを出されてから一週間ほど経ち、少しばかり体が重くなり始めたところだった。
「それじゃあフロイド、セーフワードは?」
「ラッコちゃん、セーフワードが必要なプレイすんの?」
「そんなつもりはないけど、マナーだろ? オレはフロイドの嫌がることをしたくないから、一応。な?」
「……じゃあ、“飽きた“」
「わかった。……“おいで“」
フロイドから離れたところに座り直したカリムが、フロイドに向かって両腕を広げてコマンドを言う。それだけでフロイドの背筋にビリリと電撃が走るような感覚を覚え、足は自然とカリムの方へ向かった。
カリムの正面に立つと、カリムは「“隣に座って“」と更にコマンドを出す。
コマンド通りカリムの隣に座ると、カリムはフロイドの寮服の一部である帽子を取って、わしゃわしゃと撫でながら、満面の笑顔で。
「良い子だ、フロイド!」
それだけでもう駄目だった。くたりとカリムの方へ倒れ込み、力が抜けていく。多幸感が溢れる。身体中がぽかぽかする。心臓の音が耳元で聞こえるようだった。
そんなフロイドを受け止めきれず、フロイドと一緒にソファに倒れ込んだカリムだったが、カリムはフロイドの頭に腕を回して、「良い子だなぁ」と続けて褒めてくれる。
こんな感覚は知らない。まるで全身が溶けてしまったようで、幸せで幸せで他に何もいらないと言う感覚は。
アジーム家の使用人はいつもこんな感覚をカリムからもらっているのだろうか。そう思うとずるい、とフロイドの中で嫉妬のようなものが芽生えた。

定期的にカリムとプレイするようになってから、フロイドの機嫌は常に右肩上がりだ。体調は凄まじく良い。今ならリリアと戦っても良いところまで行きそうだとさえ思えるほどに。
双子の論外の方が最近かなり上機嫌で気持ち悪い、とNRC内で実しやかに囁かれていた。実際事実なのだが。
今日もカリムとプレイ予定だ。プレイする場所はモストロラウンジのVIPルームだったり、カリムの自室のどちらかだった。プレイ後のフロイドがしばらく使い物にならなくなるから、周囲の目のないところでプレイするしかない。
今日はカリムの自室でプレイすることになっていた。そんなわけで、フロイドは上機嫌でカリムの部屋を目指す。もはや定期的にスカラビアにやってくるフロイドのことをスカラビア生はなんとも思ってなく、豪奢な廊下を歩いていても誰もフロイドを気にかけない。
ノックもせず寮長専用の部屋に入ると、カリムがベッドの上で座っていた。
「お、フロイド。時間通りだな!」
「でしょ〜。オレってば良い子?」
「ああ! 時間をしっかり守れるフロイドは良い子だ!」
扉の前から動かないフロイドだが、カリムに褒められることで充足感を覚える。もっと欲しい、とカリムに早くプレイするように促した。
カリムとのプレイはかなり軽いもので、「“おいで“」や「“今日あった楽しかったことを教えてくれ“」と言った内容ばかりだ。カリムのDom性は褒めることで欲求が満たされるらしい。
フロイドはと言うと、別に躾やお仕置きなどされたいわけではないので――Subだからといってマゾヒストなわけではないのだから当然だ――、カリムとの簡単なプレイが気に入っていた。
「フロイド、こっちに“おいで”」
早速のコマンドにフロイドはすぐさまカリムに近づいた。するとカリムはいつも通り自分の隣を指して「“座ってくれ“」とコマンドを出す。
身長差のせいでフロイドが立っていて、カリムが座っていると褒めることができない。だからいつもこうやって隣に座り、カリムが頭を撫で、「良い子」と言ってくれるのを待っている。
そうして希望通りにカリムはフロイドの頭を撫でながら「良い子だなー!」とカリムも嬉しそうにリワードをくれる。
また多幸感に包まれて、フロイドはカリムに絡みつくとベッドに倒れ込んだ。カリムも慣れたもので、その状態で頭を撫でてくれる。
いつもならこれくらいでプレイが終わるのだが、カリムがいつもとは違うことを言い出した。
「今日はもうちょっとプレイしていこうか」
これ以上プレイしたら確実にサブスペースに入ってしまうと思ったが、「なんで?」と尋ねると、簡単な答えが返ってきた。
「今度、一回実家に帰ってみんなとプレイしてくるんだ。だからしばらく間が空いちゃうから今のうちに溜める? なんて言うんだ? たくさんプレイして、フロイドの体調が悪くならないようにしておかなきゃと思って」
カリムの言ったことに、フロイドは冷や水をかけられた気がした。そうだ、カリムはフロイドだけのDomじゃない。アジーム家にいるSubたちのDomでもある。
自分だけが特別じゃないと思った瞬間、フロイドは凄く嫌な気分になった。
「次はどんなコマンドが良い? あ、“今日あった楽しいことを教えてくれないか?“」
それでもカリムは穏やかにコマンドを出してくる。フロイドがショックを受けていることに気づいていないようだ。
フロイドはカリムのコマンドに応えようとした。しかし、フロイドの口から出たのは別の言葉だった。
「“飽きた“」
咄嗟に出たのはセーフワードだった。カリムは驚きで目を瞠り、フロイドも同様に驚いていた。カリムが実家に帰って、複数のSubたちとプレイすると考えたら、とてつもない嫌悪感に襲われて、気がつけばセーフワードを口にしていた。
さっきまで覚えていた多幸感が消え、フロイドは起き上がる。
「今日はもういいや、ありがとね。ラッコちゃん」
セーフワードを使われたという衝撃に何もできないカリムを置いて、フロイドはそそくさとカリムの部屋から逃げ出した。
カリムがアジーム家のSubともプレイしていることは前から知っていたのに、どうして急に嫌な気分になったのだろう。どうして、自分だけが特別だと思ったんだろう。混乱だけがフロイドの頭の中を支配して、その日のモストロラウンジで提供される料理はひどい有様だった。
その結果、フロイドはアズールに呼び出されている。なぜかジェイドも一緒だ。
「……で、どうしたんですか。今日はカリムさんとのプレイの日でしょう。なんでそんなに機嫌が悪いんですか」
ズバリと指摘してくるアズールに、フロイドも「わかんねぇ」とだけ答える。
今日のラウンジの売り上げが散々だったアズールはそんな答えで納得がいくわけがなく。
「僕はDomではありませんが、答えなさい。このままではラウンジの経営に関わります」
「……ラッコちゃんが実家に帰るって」
「実家に? ……ああ、アジーム家の使用人の方たちとプレイしに帰るんですね。それがどうしたんですか?」
「それが嫌だったから、セーフワード使っちゃった」
アズールとジェイドは驚きに顔を染める。ジャミルから聞いていた通り、カリムは定期的に実家に帰り、使用人とプレイすると言うことはわかっていたはずなのに、なぜ?
「ラッコちゃんのSubっていっぱいいるんだよね。オレはその中の一人だって、分からされたっていうか、ずっとオレはラッコちゃんの特別だと思ってたっていうか」
だから、セーフワードを使ったと言う。アズールとジェイドは深いため息を吐く。フロイドはどうしてそんな反応されるか分からず、首を傾げた。
自覚がないと言うのは恐ろしい。アズールはのろのろと顔を上げ、フロイドに指摘した。
「あなた、カリムさんのことを好きになってしまったのですね」
「……はぁ?」
「自分以外のSubとプレイして欲しくないと言うのはそう言うことでしょう」
確かにカリムといると気が楽だ。趣味が合うし、気を使わなくて良いし、わがままは聞いてくれるし、プレイの内容もフロイドに合わせてくれる。
「ジャミルさんも言ってましたよ、アジーム家にいるSubで自分だけとプレイして欲しくてカリムさんを監禁しようとした人がいると」
「はぁっ?! 何それ、聞いたことないんだけど!」
「まぁ、醜聞ですしね。そのSubをカリムさんが説得して今もアジーム家で仕事をしているようですが」
どこまで心が広いのやら、とアズールは呆れながら言った。そしてジェイドが口を開く。
「フロイドはその一歩手前に来ていると言うことですね」
「オレはラッコちゃんのこと監禁したりしねぇし」
「でも、他のSubとプレイして欲しくないんでしょう?」
そう言われて何も言い返せなくなる。SubにとってDomからのコマンドをこなし、リワードをもらうと言うのは大事なことだ。それがなければ体調を崩し、下手をすれば死に至る。
頭ではわかっているのだが、感情がそれを認めたくなかった。それはつまり、フロイドはカリムが好きと言うことだ。
「……オレがラッコちゃん好きなのは分かったけど、だからってどうすればいいの」
「想いを伝えてみてはいかがですか?」
「ラッコちゃん、オレのこと好きだとは思えないんだけど……」
「定期的にプレイしているのですから、もしかしたらがあるかもしれませんよ」
どんよりと重い空気を背負いながらフロイドは考える。もし告白して、断られたらもうカリムとはプレイできないのだろうか。それは嫌だ。絶対に。カリムでなければならないのだ。
カリムは今、実家に帰っている。三日程度でNRCに帰ってくるとジャミルから聞いたが、三日後、想いを伝えるしかないのか。フロイドは不安を覚えながらカリムが帰ってくるまでの期間、不機嫌さを隠そうともせずに過ごすことにした。
そして一日目ですでに体調に異常が来している。この間プレイを強制的に止めたからだろうか。
ベッドに引きこもり、ただカリムが帰ってくるのを待つ。あと二日がこんなにも長いなんて。そう思いながらフロイドは眠りについた。

三日後、荷物を携えたカリムが急いでフロイドの部屋にやって来た。
「フロイド! 大丈夫か?!」
フロイドの状態をジェイドから聞いていたのだろう。顔を青くしたフロイドを見て、荷物を放り出したカリムはフロイドに近づく。
そして早くプレイを、と言うカリムをフロイドが止める。
「その前に、話したいことが、あってさ」
「話したいこと? なんだ、なんでも聞くぞ」
なんでも、は軽々しく使うなと言われたのにカリムはすぐに忘れてしまうことにフロイドは少し笑った。
「オレさぁ、ラッコちゃんのこと、好きになっちゃったんだよね」
「オレもフロイドのこと好きだぞ?」
「そういう意味じゃなくて、恋人になりたいって意味で」
そう言うと、カリムはしばらく固まって、やがて顔を赤くした。
「えっ、でも、え、な、なんでだ?」
「プレイたり、遊んだりしてる間にさー、ラッコちゃんといると、居心地がいいって思うようになったんだよね。刷り込みかもしれないけどさ。この間、アジーム家の使用人たちとプレイしてくるって言われた時、正直ショック受けた。オレだけがラッコちゃんの特別なSubだと思ってたから」
あの時思ったことをそのまま伝える。カリムは、視線をあちこちに向けて困っているようだ。
「アジーム家の使用人のこと考えると、ラッコちゃんがプレイしなきゃいけないって言うのは分かってるんだけど、それでも嫌だった」
「そ……なのか。だからセーフワードを使ったのか?
「そう。馬鹿らしいでしょ」
するとカリムは黙り込んで、何かを考えるように口元に手をやった。その頬は赤いままで、瞳も若干の潤んでいる。
「オレとのプレイが嫌になったから、じゃないのか?」
「そうだよ。むしろラッコちゃん以外とプレイしたくない」
――だから責任とってよ、ラッコちゃん。
起き上がったフロイドは、カリムの腹に抱きついて懇願する。カリムはそんなフロイドの頭をそっと撫でる。
「……オレはアジーム家の嫡男で、Subもたくさん抱えてるんだ」
「……知ってる」
「でも、フロイドとのプレイは他のSubとのプレイよりも気持ちがいいんだ」
「え?」
顔を赤くしたまま、カリムは続ける。
「使用人たちの体調管理のためにコマンドを使うのはやめられないけど、でもフロイドがオレの特別なSubになりたいって言うんなら」
カリムは放り出した荷物から、ゴソゴソと何かを探し出した。それは銀色のチョーカーで、複雑な紋様が刻まれ、中央には赤い宝石が飾られている。一眼見ただけで高級品だとわかる。
「これ見た時、フロイドのことが真っ先に浮かんだんだ。フロイドはつけてくれないかもしれないけど、って思って、本当は出すつもりはなかったんだけど」
そう言って持っていたチョーカーをカリムはフロイドに渡す。これがどう言う意味か、分からないフロイドではない。
DomからSubへ送られるパートナーの証、Colorだ。
「パートナーって言っても歪んでると思うけど、オレの特別なSubはフロイドだけだから渡しときたくて」
「……それってラッコちゃんもオレのこと好きってこと?」
カリムは耳まで赤くして、「うぅ」と呻いたが、フロイドの言葉を認めた。いつ好きになったのか分からない。でも、プレイすることでフロイドとの時間が生まれ、一緒に過ごしていくうちにだんだんと好きになっていったのだとカリムは言う。
それだけでフロイドは舞い上がりそうになったが、体調が悪くすぐにへたり込んだ。
「フロイド、とりあえずプレイしようぜ!」
「……分かった」
じゃあ、と顔を赤くしたままのカリムが、一つのコマンドを出す。
「“キスして“」
思っても見なかったコマンドに、フロイドは一瞬目を瞠ったが、すぐにカリムの唇にそっと自分の唇を重ねた。ほんの数秒にも満たないキスだったけれど、フロイドは今まで以上の幸福感を覚えていた。唇を離してすぐ、カリムはフロイドにはにかみながら「良い子」と褒めてくれた。直後、フロイドがサブスペースに入ったことは言うまでもない。

Colorをつけると言うことがどう言うことか、フロイドはよく分かっている。
己がSubであるということを公言しているようなものだ。けれどフロイドはカリムから渡されたチョーカーを首に付けた。本当は金にしたかったらしいが、フロイドなら銀かなと悩んだんだと語られたチョーカーをフロイドは気に入っている。
NRCにはDomが多く、フロイドのチョーカーを見てコマンドを実行しようとしてくる奴もいたが、ランクの低いそいつらを蹴散らしてフロイドは今日もカリムの元に行く。
プレイだけじゃなく、恋人としての時間を過ごすために。畳む
    
フロカリ / 恋のすゝめ

カリムが一人で中庭で昼食を食べている時――その日、いつも一緒に昼食を取っているシルバーは教員に呼び出されていなかったのだが――、廊下を歩くフロイドの姿を見つけた。
長身で特徴的なピーコックグリーンの髪色の彼はカリムにとってはひどく見つけやすく、大声をあげてフロイドのことを呼ぼうとした瞬間。フロイドの近くに真紅の薔薇を思い起こさせる髪色をした少年がいることに気がついた。
カリムと同じ寮長として親しくしているリドルがいた。リドルはフロイドに揶揄われているようで顔を真っ赤に染め上げ、怒っている。フロイドはそんなリドルの様子を見て楽しんでいるようだ。
フロイドがリドルを揶揄い、それに対してリドルが怒る。いつもの光景なのに、それを見てカリムは嫌な気分になった。
そのことを疑問に思うと同時に食欲が失せ、カリムは食べていた弁当に伸びていた食指を止める。ジャミルには申し訳ないが、弁当は残そう。
気がつけば二人はいなくなっていた。カリムの心に仄暗い感情を残して。

モヤモヤは午後になっても消えず、カリムの頭にはフロイドとリドルの姿が頭にチラついた。
そのせいで魔法薬の授業で失敗し、クルーウェルに課題を出され、軽音部の部室でリリアとケイトに手伝ってもらいながら必死に課題をこなしている。
「どうしたんじゃ、カリム。いつもはなんだかんだ真面目に授業を受けておるじゃろ。こんな課題を出されるなんて珍しいのぅ」
「そうだね、カリムくんにしては珍しいかも。なんか悩み事でもあったの?」
決して答えをそのまま教えるわけではなく、カリム自身が答えを導き出すように教えてくれる二人に質問され、カリムは「う〜ん」と悩ましい声を上げた。
そんなカリムの様子に、リリアとケイトは顔を見合わせる。
悩みとは無縁そうなカリムが、本当に何かに悩んでいるのかもしれない。これは聞き出さねばなるまい、とリリアとケイトは視線で通じ合う。
そそくさとカリムの前に置かれた課題を避け、「休憩にしようか」と少しばかり不自然に促す。しかしカリムはその不自然さには気づかず、素直に頷いた。
「で、カリムくん。悩みって? ほらほらぁ、けーくんに言っちゃいなよ」
「そうじゃぞカリム。悩みを抱えていては体に悪い。実際に授業に支障が出ておるようじゃし」
「えっ、なんでオレに悩みがあるってわかるんだ?」
カリムは驚いたように目を瞠り、リリアとケイトを見やる。
「同じ軽音部なんだから当然でしょ!」
「そうじゃそうじゃ、同じ部の仲間じゃろう。気軽に話してみるが良い」
カリムのわかりやすさについては言わずに、とにかく話を促すリリアとケイト。
それにカリムは唸りながら、話すべきか考える。いつも部活で会話したり、音楽を一緒に奏るリリアとケイトのことはもちろん信頼している。彼らになら、自分に起こる不可解な現象を相談してもいいかもしれない。
そうと決まれば早速カリムは今日の昼に起きたことを話すことにした。
「実は今日の昼、一人で中庭で弁当を食べてたんだけど」
「一人で? シルバーくんと一緒じゃないなんて珍しいね」
「シルバーは先生に呼び出されてて一緒に食べれなかったんだ」
普段、授業中も寝てしまうシルバーは罰として教員の手伝いをすることが稀にある。今日はたまたまその日だったと言えば、リリアもケイトも納得した。そのままカリムは続ける。
「で、廊下でフロイドが歩いてるのを見かけたから声をかけようと思ったんだけど……」
「思ったんだけど?」
「リドルが一緒にいてさ」
「えっ、リドルくんが?」
突然出された自分の寮の寮長の名前に驚くケイト。カリムの悩みにリドルが関わっているのなら、ケイトは積極的にカリムの悩みの解決に乗り出さねばと真剣に聞く姿勢になった。寮長同士のいざこざなんてとんでもない。
「フロイドがリドルを揶揄って、それにリドルが怒るんだ」
「いつものことじゃな」
「いつもの光景だねぇ」
「そう、いつものことなんだ」
だけど。しょんぼりと肩を落とすカリムは、らしくなく眉をハの字にして胸の辺りにギュッと握りしめた拳を当て、
「でも俺は、それを見て嫌な気分になったんだ」
「嫌な気分に?」
「カリムが?」
カリムが気分を害するなんて珍しいと二人は瞬く。朗らかで、明るくて、負の感情なんかまるで無縁そうなカリムが嫌な気分になるとはどういうことか。
「フロイドがリドルに構ってるのはいつものことなのに、オレはそれが嫌だったんだ」
辛そうに言うカリムを見て、リリアがふむと頷く。ケイトも何かを察したように口元を三日月のようにして笑みを浮かべていた。
「それって嫉妬じゃない?」
「うむ、フロイドがリドルに構っていたことに嫉妬しておったんじゃろう」
「……嫉妬?」
不思議そうに首を傾げるカリムに、ケイトはカリムの頬を指でつつく。
「そうそう、カリムくんってばリドルくんに嫉妬しちゃったんだよ〜」
「まさかカリムがフロイドのことを好きになるとは思わなんだ。じゃがフロイドとカリムは気が合うから納得でもあるのう」
うんうんと頷きあう二人にカリムはついて行けてない。何がそんなに楽しそうなのだろうか?
疑問に思ったことを抱えておくなんてことをしないカリムは、素直に二人に問うことにした。
「何でそんなに楽しそうなんだ?」
「いやー、恋バナって言ったらテンション上がっちゃうでしょ」
「うむうむ、それにカリムの恋バナじゃからのう。カリムに特別な人ができる日が来るとはめでたいことじゃ」
朗らかに笑い合うリリアとケイトとは真逆にカリムの顔色は血の気が引いたように蒼白になる。てっきり照れたり恥じらったりするものかと思いきや、それどころか何かを嫌がるように首を振った。
そんなカリムの様子は初めてで、ケイトは驚きを隠せない。
「違う、オレには特別な人なんていない」
「好きな人が出来るなんて、普通のことじゃん? そんなに気にすることないよ〜」
普通のこと、と言うと、カリムは今すぐにでも泣き出しそうな顔になってしまう。更に慌てたケイトは、「どうしたの?!」とカリムの心配をする。
「特別なんていらないんだ。カリム・アル=アジームに特別な人を作っちゃ駄目だなんだ」
誰にでも平等に慈悲を与え、特別な存在など作らない。次期アジーム家の当主となるカリムは無意識にずっとそう思ってきたし、そうしてきた。自分の命を狙う人間にも、家で働く使用人たちにも。
なのに誰かに入れ込んでしまったら、その誰かだけを特別扱いしてしまうかもしれない。他の何もいらなくなってしまうかもしれない。
いつか沢山の女性を嫁に迎えて子を作らねばならないというのに、その女性たちを拒絶してしまうかもしれない。そうなったらアジーム家の恥である。
涙を溜めながらそう訴えるカリムに、二人は複雑そうな顔をした。カリムは生まれが特殊すぎる。だから特別な人間をあえて作ってこなかったのは、カリムにとってある種の自己防衛だったのだろう。
リリアはそっとカリムに寄り添い、肩を抱く。
「確かにそうかもしれぬな。しかしカリムよ、そう悲観するものではない。特別な存在を作るということは尊いことじゃ。特にお主にとっては、狭い世界を広げることになるかもしれん」
「だけど、オレはアジーム家を継がなきゃいけなくて、父ちゃんみたいに誰にだって平等でなきゃいけないのに」
「そのアジーム家を継ぐのって、カリムくんじゃないとダメなの? 弟くんとか妹ちゃんとかに家督を譲るとか……」
「そうすると弟妹たちの命が狙われるようになる」
そう否定するカリムに、ケイトはギョッとする。その言い方はまるで自分の命が狙われるのは構わないと言いたげだ。いや、実際にそうなのだろう。カリムにとって、自分の命は大切だが、他人と比べれば安いものと思っている節が時折感じられた。
そのことが寂しいとケイトは思ったが、カリムの気持ちを考えると何も言えなくなる。
結局その日は泣き出しそうなカリムを慰めて部活は終わった。
カリムが寮に戻るとジャミルは目を赤くしたカリムに驚いて、何事かと聞いてきたがカリムは「なんでもない」を貫き通し、自室へと戻った。寮生たちもいつも元気なカリムが落ち込んでいる様子を心配していたが、カリムはそれをありがたいと思いつつ何も言うことはできなかった。
ベットに倒れ込み、昼間見たフロイドのことを思い出す。それだけで心臓がどくりと跳ね上がるものだから、カリムは自分の胸の真ん中を叩いた。
「フロイドはただの友達、特別なんかじゃない」
言い聞かせるように呟いて、目を閉じる。疲れていたのか、カリムはそのまま眠りについた。明日になったらいつもの自分に戻っていますように、と願いをかけながら。

起きたら翌日になっていた。カリムは目をぱちぱち瞬かせながら周囲を見渡す。テーブルの上に盛り合わせの瑞々しいフルーツが置いてあり、きっとジャミルが置いておいてくれたんだろうなと感謝する。
昨夜は何も食べなかったから、食べやすいフルーツを選んでくれたんだろう。それにカリムはこういったフルーツが好きだった。毒が仕込まれててもわかりやすいし、対策がしやすい。
こう言った思考になって、やっぱり自分は誰かを好きになる権利などないとカリムは思った。
もしカリムに恋人ができたとして、その恋人が狙われたらどうする。カリムには恋人を守ってやるだけの力はない。
そうだ、昨日のことは気のせいだったんだと思いながらフルーツを食べた。
そう思っていたのに、
「あれ〜、ラッコちゃんじゃん。顔色悪くない?」
鏡舎でフロイドと鉢合わせた。会うつもりなんて毛頭なかったのに、タイミングが悪すぎる。
「なっ、なんでもない! 大丈夫だ、心配してくれてありがとう!」
カリムは心臓が高鳴りつつあるのを自覚して、とにかくフロイドから逃げるように校舎へ向かった。残されたフロイドはぽかんとカリムの後ろ姿をただ見守るしかなかった。
それから何の因果かその日に限って何度もフロイドとエンカウントしてしまったカリムはフロイドのことを避けた。避けまくった。そうして――
「――なぁんでオレから逃げてんのぉ?」
フロイドの不興を買ってしまったカリムは、人気のない廊下で壁際に追いやられていた。
長い手足で行き場を遮られてしまって逃げ場がない。いわゆる壁ドンというやつだろうか。ケイトが前に貸してくれた漫画に描いてあった。
とにかくこの状況はまずい。顔が熱くなるのを感じながら、なんとか言い訳を考えなければ、とカリムが出した答えはこうだった。
「きょ、今日は人魚と話すと悪いことが起こるって占いで、」
「アズールとジェイドとは楽しそうに話してたじゃん」
授業が一緒になったときに二人と話してたのは本当だ。しかしなぜそれをフロイドが知っているのか、と疑問を覚える暇もなく、フロイドは「ねぇ、なぁんでぇ?」と圧をかけてくる。
なんと言ってこの場から逃げるべきかと必死で考えていた時、ふと天啓にうたれた。
そうだ、フロイドへの想いを認めて、そしてそれをフロイドに伝えればいいんだ。そうしたらフロイドはきっとカリムのことを気持ち悪がって、向こうの方からカリムを避けてくれる。
それはきっと寂しいが、フロイドのためにもそれが一番だと思ったカリムは、赤くなった顔をフロイドに向けた。
「じ、実は……オレ、フロイドのことが好きで、フロイドと一緒にいると心臓がドキドキするから逃げてたんだっ」
「え、そうなの? なーんだ、オレたち両想いじゃーん! オレもラッコちゃんのこと好きだよ、そういう意味で」
「……え?」
予想とは正反対の答えが返ってきてカリムの目は点になる。求めていたのは「何それ、気持ち悪ぅい」とか「ラッコちゃんがオレのこと好きとか無理なんだけど」と言った言葉で、決して両想いだとかなんだとかではない。
慌ててカリムはフロイドを止めにかかる。
「やめといた方がいいぞ、フロイド! オレ、他人に迷惑とかかけちゃうし、わがままだし、大雑把だし」
「そこがおもしれーんじゃん、ラッコちゃん。ていうかわがままってどこから来たの? 全然わがままじゃないじゃん」
「それに、えーっと、世間のこととかあんまり知らないし、宴とか大好きだし、馬鹿正直ってよく言われるし」
「だからそこが良いんだって。……何? ラッコちゃんオレにフラれたいの?」
そうだ、とは言えず、カリムはぐっと言葉を飲み込んだ。
ふーんと見下ろすフロイドは、「なんで?」とただただ疑問を投げかけてくる。
「……だって、オレはアジーム家の跡取りだ」
「逆玉の輿じゃん。親父とママに褒められるよ、オレ」
「もしオレの恋人とかになったら、命を狙われるかもしれないし」
「そこらの雑魚にオレが負けると思ってんの?」
「将来、嫁さんをたくさんもらって子供を作らなきゃいけないし」
「それはちょっと嫌かも」
最後の一言でやっぱり、とカリムは思う。たとえ両想いだったとしても、他にたくさんの嫁をもらうことが確定している人間と付き合えるかといえば、答えはノーだろう。
しかしそんなことで折れるフロイドではなかった」
「そうだ、ラッコちゃんが産めば良いじゃん」
「へ……? オレが産む?」
「そうそう、人魚は多産多死だから。オレとジェイドが生きてるのも過酷な世界を生き延びて来たからってわけ。他の兄弟はどうなったか知らねぇけど」
アジーム家ならたくさん生まれても大事に育ててくれるでしょ、とあっけらかんと言うフロイドに、カリムは話についていけなかった。
「アズールならラッコちゃんを人魚のメスに変身させる薬とか作れるでしょ。っていうか対価渡せば根性で作ると思うし。これで問題解決じゃね? じゃあラッコちゃん、オレと番になろ?」
アズールに問題を全投してカリムに付き合おうと迫ってくるフロイド。
フロイドを見上げるカリムの瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。
「……オレ、フロイドのことを好きでいて良いのか?」
「良いじゃん。好きでいてよ」
「フロイドが誰かに構ったりしたら嫉妬するし、もしかしたらフロイドのこと以外どうでもいいって思うようになっちゃうかもしれないけど良いのか?」
「え、なになに、ラッコちゃん誰かに嫉妬でもしてたの? それにラッコちゃんに特別扱いしてもらえるってこと? サイコーじゃん」
いつもの、ただ楽しそうな笑顔ではなくて、好きな人を見るような目でフロイドに見下ろされて、カリムは顔がますます熱くなった。涙も後から後から出てくる。
昨日、リリアとケイトをあんなに困らせたのに、こんなに簡単に解決してしまって良いのだろうか。なんだか申し訳なくなる。
「昨日、リリアとケイトにフロイドのこと好きでいられないって言ったんだ……」
「メンダコちゃんとハナダイくんに? 迷惑かけちゃったねぇ」
「謝りに行かないと」
「じゃあ今日の部活に一緒に行こうか?」
その提案に、カリムは指先でフロイドのシャツの端を掴みながらこくりと頷いた。

「え、カリムくんとフロイドくん恋人になったの?!」
「昨日の今日でとは驚きじゃのう」
「昨日はごめんな! お詫びに購買でたくさんお菓子買ってきたら!」
たくさんの高級菓子を並べられてリリアとケイトは目を丸くする。カリムの隣にいるフロイドは早速菓子の一つを取り上げて、封を開けていた。
あんなに苦しそうだったカリムが元気になって、リリアもケイトも安心したが、フロイドが一体何を言ったのかが気になる。が、それよりも。
「って言うかフロイドくん、部活は?」
「今日はラッコちゃんと番になった日だから休み〜」
「そんな休みはないと思うよ……」
自分の後輩を思いながら、ケイトはそれ以外何も言わなかった。
そんな二人を置いといて、リリアは興味深そうにカリムに話しかける。
「で、どうしてそんな簡単に話が纏ったんじゃ? ほれほれ、わしにも言うてみよ」
ほぼ野次馬のようになっているリリアに、カリムは照れながらフロイドに言われたことを思い返す。
「オレがアジーム家の跡取りだって言ったら、逆玉の輿って言ってくれて……」
「それはそうだけど、面と向かって言うこと……?」
「もしも暗殺者に狙われたりしてもフロイドなら負けないって」
「確かに、フロイドならユニーク魔法も防御に特化しておるし、身体能力も高いし問題なさそうじゃの」
「それに子供はオレが産めば良いって」
「はぁ?」
「ふむ?」
そこでリリアとケイトの声が重なる。男であるカリムに子供を生殖する器官はない。だと言うのにカリムが産むと言うのはどう言うことだ?
視線をフロイドに向けると、フロイドはのんびりとした声で答える。
「アズールに頼んでラッコちゃんが人魚のメスになる薬作ってもらって子作りすれば、ラッコちゃんが子供産めるじゃんって話。ちゃんとした人魚じゃないからせいぜい三十匹くらい生まれるんじゃないの?」
いや十分すぎる。それでもフロイドは「オレの兄弟もっといたらしいけどね〜」と宣った。
それにしても、それではアズールが不憫すぎやしないか? とケイトは思ったが、アジーム家にはきっと国宝級の宝が宝物庫に幾つもあるのだろうと考えるとアズールも努力するだろうことが目に浮かんだ。
リリアも「アズールならなんとかするじゃろ」と言っている。
とにかく、親しい友人が幸せそうにしていることが何よりだ。そうだ、今はそれだけでいい。
幸せそうに笑い合うフロイドとカリムを見て、ケイトは考えることを放り出した。畳む
    
フロカリ / 怖くなんてないさ

ゴーストや妖精、獣人や人魚。様々な生き物があたりまえにいる世界で、たかが魔法の使えない人間が作った映画ごときに誰が怯えるか、と言ったのは、数刻前のフロイドである。
だがしかし、現実はどうであろうか。ガタガタと震えながらカリムにしがみつく男は、先程から画面上で何か起こるたびに悲鳴を上げ、カリムの臓腑を圧迫している。
「ふむ、意外じゃのう」
「リリアちゃん、そんなこと言ってないでカリムくんのこと助けないと」
意外そうにカリムに抱きつくフロイドを見つめつつ呟くリリアに、ケイトは冷静にツッコミをいれる。

どうしてこのような状況になっているかというと、いつものようにリリアたち軽音部のメンバーが部活動に勤しもうとお菓子を広げたところで、ケイトが映画を見ないかと提案してきたところから始まる。
魔法を使えない人間たちが作ったのにとてもリアルで、怖すぎて泣き出す人もいたという有名なホラー映画。それを三人で鑑賞しようという話になったのだ。
いざ映画を見ようとしたタイミングで、部活を抜け出してきたらしいフロイドがやってきた。部室の扉を開けて第一声が「ラッコちゃん遊ぼ〜」だったのは言うまでもない。
そこで、カリムがこれから映画を見るところだと告げるとフロイドはすぐさまじゃあオレも、となったのだが、前述の通り魔法が使えない人間が作った至高のホラー映画であると言ったところ、フロイドの表情が一瞬固まった。
おや? とリリアとケイトは疑問を抱いた直後、フロイドは「魔法の使えない人間が作った映画なんてたかが知れてんじゃん」と言い出した。遠回しにそんなもの見たくはない、とでも言ってるようなモノである。
「もしやおぬし、映画が怖いのか? 海のギャングとも言われておるウツボの人魚が?」
「は? 何言ってんのメンダコちゃん。たかが人間が作った映画なんかで誰が怖がるかよ」
「あのー、無理は良くないと思うよ? フロイドくん」
「無理なんてしてねーし、ハナダイくんも何言ってんの」
「フロイド、もしかして映画が怖いのか?」
「怖くなんてねーし!」
そう喚くフロイドはとっとと映画を見ようと自ら促し始めた。自らリモコンを奪い取り、再生ボタンを押したのである。
そしていそいそとカリムの背後に回り込むと、そこに座ってカリムを抱え込んだ。そこからカリムの受難の時間が始まったのだ。
冒頭は特に問題なく見ていたが、意味深ではあるが特になんでもないシーンでさえ悲鳴を上げ、中盤以降はただひたすらカリムの臓腑を締め上げるbotになってしまった。
カリムはカリムで映画どころではない。いつフロイドに胴を締め上げられるか不安で仕方ないようだ。こんな可哀想な映画鑑賞会があってたまるか。面白そうに見守るリリアからリモコンを取り上げたケイトは映画を停止した。
映画は途中までだが話題の通り本当に魔法を使っていないのかと疑いたくなるほどリアリティがあり、話が進むにつれどんどん恐怖を煽る内容だったが、フロイドの悲鳴とそれに付随するカリムの苦しそうな声のせいで内容が頭に入ってこない。
「フロイドくん! ホラー映画が苦手なら苦手って言いなよ!」
「……苦手じゃねーし……」
「今更そんなこと言ってもだいぶ遅いのぅ」
「ははは……フロイドでも苦手なことってあるんだなぁ」
苦笑しながら腕に回ったままのフロイドの腕をポンポンと宥めるように叩いてやるカリムは聖人か何かか? とケイトは思う。
「怖いものが苦手なのは別に悪いことではないじゃろう。何も恥じることはない」
「そうだよ。確かにフロイドくんが怖いものが苦手って意外だけど、別に良いんじゃない? ほら、ギャップ萌えってのもあるし」
落ち込んだようにカリムの肩に顔を埋めるフロイドを慰めるリリアとケイト。カリムは腕を上げて今度はフロイドの頭を優しく撫でている。
「ギャップモエとかいらねーし……あー、ラッコちゃんにカッコ悪いとこ見せたくなかったのに……」
ならば最初から映画鑑賞に参加しなければ良かったのでは、と言う言葉をケイトは口にはしなかった。空気を読むことにはこの場では一番長けているケイトだからこそできたことだ。
「ならば最初から映画なぞ見なければ良かったじゃろ?」
しかし空気を読むことを知らない、いや読んだ上で敢えて言うのがリリアである。フロイドはカリムの肩から顔を上げ、リリアをギッと睨む。睨まれたリリアはどこ吹く風とばかりに余裕の表情だ。もしも睨まれたのが普通の生徒だったら失神していたであろう鋭い目つきだ。
「あそこまで言われたら見ないわけにいかねーじゃん……!」
そこまで言った記憶はない、と訴えたかったがそこはきっと聞いてもらえないだろう。
「なんでフロイドは怖いものが苦手なんだ? ゴーストなんかこの学園にいるだろ?」
そしてフロイドの怖がりを深掘りしようとするカリム。これはカリムではなかったら確実に半殺しにされていたであろう質問だ。ケイトはカリムのその疑問に思ったことをすぐに口に出せるところを凄いと思った。同時に見習いたくはないとも。
「……ラッコちゃんは海のゴーストを見たことないから言えるんだよ」
「海のゴースト?」
ゴーストといえばNRCでは当たり前に存在するが、それはNRCが常に魔力に満ち溢れている場所だからであり、その他の場所ではゴーストとはまだまだ珍しい存在である。ハロウィーンの時期やある条件を満たした場合のみ、NRCのような魔力が溢れいている場以外でもゴーストが現れるときがある、程度だ。
NRCや RSAに通っていて、かつ魔法士であるという適性がなければ、運が良ければ出会える存在。それがゴーストである。
フロイドはどうやら元々適性があるとはいえ、海の底では珍しいゴーストと出会ったことがあるらしい。
「海のゴーストってどんな感じなんだ?」
「……思い出すのもスッゲー嫌なんだけど……」
「あ、フロイドが嫌なんら別に話さなくても良いんだぞ!」
嫌そうな顔をするフロイドに、カリムはすぐに話さなくても構わないと言ったが、フロイドは少し考えた後、「別にいいよ」と語り出した。
「稚魚の時にさぁ、なんとなく夜中に目が覚めて……って言っても海の底の夜中なんて昼間と大して差がないんだけどさ。なんとなく家から出て泳いでたわけ。そしたら変な影が見えて……こんな時間に他の人魚がいんのかと思って近づいてみたら……」
そこでフロイドは顔色を悪くする。当時のことを思い出したらしい。カリムは再び無理するな、とフロイドに言ったが、フロイドはここまで来たら最後まで聞いてほしいらしく言葉を続けた。
「ブクブクに太ってて目が濁った頭蓋骨剥き出しのゴーストがケタケタ笑いながらオレのこと追いかけて来たんだよね」
多分、近くの沈没船に乗ってた船員のゴーストだったんだろうけど、とフロイドは言う。
その話を聞いたケイトとカリムは顔を青くする。幼いうちにそんな経験をしていたら怖いものが苦手になっても仕方がない。
「なるほど、魂の形ではなく、水死体の姿で現れたんじゃな。趣味の悪いゴーストがいたものじゃ」
対してリリアは特に驚きもせずに頷いている。ケイトは時折思うのだが、リリアは本当に同級生なのだろうか? 見た目は恐ろしく若く可愛らしいが、喋り方なども含めて若々しさを感じられない時がある。
「あー‼︎  思い出したらまた気持ち悪くなってきた! ラッコちゃん責任とって今日は一緒にオレと寝ること!」
「えっ?!  オレのせいなのか? でも無理矢理聞き出しちまったのはオレだし……スカラビアに来てくれるんだったらいいぜ!」
結構勝手なことを言われているのにカリムは快くフロイドの言うことを了承した。カリムは話すことを止めていたのに勝手に語ったのはフロイドの方だと言うのに、カリムの心の広さは無限大なのだろうか。常々ケイトは感心するしかない。
じゃあラッコちゃんの部屋行こ! とフロイドはカリムを横抱きに抱え上げ、立ち上がると軽音部の部室をカリムと共に後にした。残されたリリアとケイトはその二人をただ見送るしかない。
「いやぁ、意外なことが知れたのぅ」
「カリムくん、あれで良いのかな……?」
広げられたお菓子は全然減っておらず、カリムの持ってきたジャミル特性のお菓子なんかも残したまま。
こうなったら映画鑑賞のやり直しをしようとリリアとケイトは決め、映画を最初から見ることにしたのだった。畳む
    
マレウス+カリム / 白妙の竜

全ての授業が終了した放課後。部活もなく、特にすることもないカリムは何かないかと学内を歩いていた。西日のさす廊下で、一対の角が目立つ長身の後ろ姿を見つけたカリムはその表情を輝かせた。
「マレウス!」
片手を上げ、その後ろ姿へ駆け寄る。名を呼ばれた生徒――マレウスはゆったりとした動作で振り返った。マレウスは駆け寄ってくるカリムの姿を見とめ、口元を緩めて歩んでいた足を止めた。
「僕に何か用か、アジーム」
マレウスのすぐそばまで駆け寄ったカリムは、嬉しそうな表情を崩さずにマレウスへと問いかける。
「ああ、前から気になってたんだけど、マレウスってドラゴンになれるんだよな?」
「僕はドラゴンの妖精だからな。当然、なれる」
それがどうした? とマレウスは首を傾ぐ。カリムは頬を赤くして、さらに続けた。
「じゃあさ、ドラゴンになったらどれくらい大きくなるんだっ?」
「そうだな……ここの廊下の広さでは足りないだろう。――どうしたんだ、アジーム。ドラゴンに興味があるのか?」
マレウスのドラゴンになった時の大きさを聞くと、カリムは凄いな! と興奮したように驚く。この広く高い天井廊下では足りないと言うと、どれだけの大きさになるのか。想像するだけでわくわくする。
そんなカリムの様子に、今度はマレウスが問うた。こんなに己に興味を持たれることはそうそうない。どこか擽ったい気持ちになりつつ、マレウスはカリムのことを見下ろす。
「ドラゴンって格好いいだろ? 本物は見たことないけど、実家の書庫にあった図鑑で見た時から一度で良いから本物を見てみたいって思ってたんだ」
「……それは僕にドラゴンになってほしい、と?」
「いや、流石にそんなことは頼めないだろ? ただ、どれくらいの大きさなんだろうって知りたかったんだ」
「ドラゴンと言っても色々な種類があるから、一概には言えないが……そうか、本物が見てみたいか。それならアジーム、いっそお前がドラゴンになってみたらどうだ?」
「オレが?」
マレウスの提案に、カリムは驚く。目を瞠るカリムに、マレウスは鷹揚に頷いた。
「僕の魔法で一時的にアジームをドラゴンの姿にしてやろう。ここでは狭いから、裏庭へ行こう」
驚いたままのカリムを置いてけぼりに、マレウスは止めていた足を動かし出す。そんなマレウスの後を、カリムは慌てて追いかけるしかなかった。

裏庭にやって来たマレウスとカリムは、早速とばかりに用意を始める。マレウスはペンを取り出すと、カリムに少し離れた場所に立つように指示した。
指示された通りにカリムはマレウスから少し離れる。ドラゴンになる。そんな大掛かりな魔法をいとも簡単にやってしまおうと言うのだからマレウスは凄い、とカリムが思うと同時に、自分がドラゴンになったらどんな姿になるのか楽しみになる。
もしもこの場をカリムかマレウスの従者に見つかったらすぐさま止められていただろうが、生憎ここにはストッパーが一人もいなかった。
「いくぞ、アジーム」
「ああ、いつでもいいぜ!」
マレウスの持つペンから光が溢れると、それは瞬く間にカリムを包み込み、カリムは全身は光で覆われて影しか見えなくなる。やがて影は人の形を失い、人ならざるものへと姿を変える。
人よりも二回りほど大きく、頭と思わしき場所には歪な角の影。光が消失した頃にはそこには元のカリムの姿はなく。真珠色に輝く長く美しい体毛に包まれたファードラゴンがいた。瞳は人の時と同じく鮮やかなガーネットレッドで、まるで宝石を思わせるような美しいドラゴンの姿に、魔法をかけたマレウスも思わずため息を吐く。
カリムは己の変わりきった姿に驚き、瞳をぱちぱちと瞬かせると、その場をくるくると回り出した。
『わっ、本当にドラゴンになっちまった! 凄いぞ、マレウス』
「ああ、僕もこんなに美しいドラゴンを見るのは初めてだ。このまま茨の谷に連れて行ってしまいたいほどだ。きっと民たちも気にいるに違いない」
『そうか? そう言われるとなんか照れるな』
リリアが先ほどのマレウスの言葉を聞けば、本気で言っているのだろうとわかっただろうが、カリムはただの社交辞令と受け取った。
大きな尻尾をぶんぶんと振り回し、四つ足でドラゴンの姿を堪能するカリム。そんなカリムにマレウスは近づき、そっとカリムの頬を撫でる。ファードラゴン特有の羽毛のような体毛が心地よく、マレウスは気分を良くして顔以外も撫でた。その手つきが気持ちいいのか、カリムは目を細めてマレウスの手を受け入れる。むしろもっとやってくれとばかりに大きな図体をマレウスに近づけた。
二人にとって穏やかな時間が過ぎていたが、これだけ大きな魔法を使っていて誰にも見つからないはずがなく。ドタドタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「さっきの光は……っドラゴン?! それに、マレウス先輩……!?」
「一体何が起きてるんですか!?」
やって来たのはリドルとアズールだった。二人はドラゴンになったカリムの姿を見て目を見開き、次にマレウスの姿を確認すると、慌ててペンを取り出してカリムに向けた。ドラゴンがマレウスを襲おうとしているのだと勘違いしたのだろう。
ピリリと肌を刺すような緊張感があたりを支配し、いざアズールとリドルが魔法を使おうとした瞬間、マレウスは腕を軽く振った。それだけで魔法の発動が止められて二人は驚く。
「マレウス先輩! 何をするんですか!」
「落ち着け。ローズハート、アーシェングロット。このドラゴンはアジームだ」
「カリムさん!? そのドラゴンが?!」
驚くアズールとリドルに、カリムはドラゴンの姿のままコクコクと頷く。そして今更ながら攻撃されそうになったのだと気がついて角の横にある犬のような耳をペタンと畳ませた。
「カリム、何があってこんな姿になってしまったんだいっ」
「アジームがドラゴンを見てみたいと言っていたからな、それならば本人がドラゴンになってみればいいと僕が言ったんだ」
「それは……いや、その、どうやってカリムさんをドラゴンに……?」
「僕の魔法に決まっているだろう」
まるで当たり前のようにそう言ってのけるマレウスに、リドルとアズールは頭を抱える。人をドラゴンに変えるという魔法で一体どれだけの魔力が使われるのか。さすがは次期茨の谷の妖精王と言うべきか、スケールが違う。普通の魔法士がやろうものなら一発でオーバーブロットと起こしそうなことを簡単にやってのける。
カリムは居心地悪そうに尻尾をぱたんぱたんと揺らしながら、視線をマレウスとリドルたちの間で行き来する。どうにもまずい事態になったと言うことは察したようだった。
「これは……ジャミルに見つかる前にカリムを元の姿に戻さないと」
「そうですね、こんなところをジャミルさんが見たら卒倒してしまうそうです」
『この姿、結構気に入ってるんだけどなぁ。白くて綺麗で』
鋭い爪を見下ろしながらカリムが呟くが、リドルとアズールは疑問符を浮かべたような表情をする。その事にカリムもどうしたのかと首を傾げた。
「ああ、今のアジームの言葉はこの場では僕しか分からない。さすがに動物言語学でもドラゴンの言葉は教えていないだろう」
『そうなのか?』
「カリムさんはなんと仰っているんですか」
「ああ、この姿を気に入っているらしい。僕もアジームのこの姿を気に入っている」
「カリム……キミね……」
「マレウスさんも冗談はやめてください……胃に穴が開く人がいますから」
「冗談のつもりはなかったんだが」
その方がタチが悪い! とはなんとか口に出さず、リドルとアズールは唇を噛んだ。
二人がヤキモキしている間、カリムはマレウスの手に顔を押し付けてもっと撫でてほしいとアピールし、マレウスはそれに応えてカリムの頭や角まで撫でている。
とにかく周りを気にしないカリムとマレウスに、リドルとアズールも毒気が抜かれた。慌ただしくやって来たのはなんだったのだろうかという気分にもなる。
「とにかく先生達が来る前にカリムさんを元に戻した方が良いです。面倒なことになりそうですから」
『うーん、それもそう……なのか? ごめんなマレウス、元に戻してくれるか?』
「……残念だが、仕方ない」
マレウスはペンを取り出すと、再び光を溢れさせ、その光がカリムを包み込む。光に包まれた影は次第に小さくなり、人の形になると消えていった。そこには人の姿に戻ったカリムがいた。
カリムは自分の腕や脚を見回して、元に戻ったことをしっかりと確認するとマレウスに「ありがとな!」と感謝を告げる。
「僕も楽しい経験ができた。次はアジームが茨の谷に来たときにやろう」
「お? オレが茨の谷に? なんか知らないけどわかったぜ!」
「カリム、適当に返事をするもんじゃないよ」
「そうですよ、妖精を相手に適当な約束なんてするものではないです」
「そうなのか?」
そうやってマレウスを見上げるカリムに、マレウスはただ意味深に笑うだけで何も答えない。
カリムも笑って返すが、リドルとアズールは笑えなかった。
もしカリムが茨の谷に行ってドラゴンに変身したら、一生そのままになってしまうのではないかと不安を覚えるのだった。畳む
    
フロカリ / 予行練習(仮)

休日の朝から、フロイドは珍しくNRCの麓の街に訪れていた。モストロ・ラウンジで必要な材料をサムの店で買おうとしたところ、珍しく品切れしていたため、わざわざ街まで足を伸ばしたのだ。
NRCから麓の街までは遠く、どれだけ途中で他のオクタヴィネル生に買い物を押しつけようかと思ったことか。運悪くNRCを出るまでにオクタヴィネル生と出会わなかったため仕方なく己の足でここまでやって来たのだ。
陸生活を始めて二年は経つが、それでもNRCから街まで歩くのは非常に退屈だった。アズールにひどく言い聞かせられてなかったら途中で帰っていたところだ。
街にある店をいくつか回ってようやく材料を買い集めたフロイドは疲れた足を今度はNRCへと向ける。行きは長い下り坂だったのが、帰りは長い上り坂になるのかと思うとそれだけで疲れる気がした。
どこかで休んでから帰ろうかと辺りを見回したとき、教会が目に入った。教会の扉は開いていて、中が窺える。
厳かな雰囲気の中、白のタキシードを着た男とシンプルだが美しいドレスを着た女が牧師の前で神に誓う。それは所謂、結婚式だった。
フロイドはその神聖な儀式を、なんとはなしに眺め続けていると、花婿が花嫁のべールを上げ、そっと口付ける――ところまでは見届けず。休む気分じゃなくなったフロイドはさっさと帰ることにした。それよりもやりたいことができたのだ。
長い足を存分に活かして坂道を上る。足がだるいし重たくなる。やっと門が見えてきた頃には足が棒になりそうだった。
早く部屋に帰って眠りたい。そんな思いを抑えて鏡舎にやって来たところで、目的の人物が目に入った。
「ラッコちゃん!」
「お、フロイド! ちょうど良かった!」
ラッコちゃんと呼ばれて振り向いたのはフロイドが愛して止まない恋人、カリム・アルアジームだ。カリムの両腕は真っ白な布の塊を持って、なぜかオクタヴィネル寮への鏡の前に立っていた。まさにこれから鏡に入ろうとしていたようである。
オクタヴィネルに何か用でもあるのかと首を傾げつつ近づくと、白い布の塊を見せてくれた。よく見るとそれは薄い網状の布で、端には綺麗なレースが刺繍されている。チュールレースと呼ばれるものだ。
「これ、宝物庫で見つけてさ。アズールにモストロ・ラウンジとかで使えるんじゃないかと思って持ってきたんだ」
「ふぅん……」
少し広げて見せてくれたチュールレースは流石、カリムの宝物庫にあったものらしく、麓の街で見た花嫁が着けていたべールよりもずっと豪奢なものだった。
カリムこそちょうど良いもの持ってるではないかと思ったフロイドは、フロイド達の近くを通った、買い出しに行くときには全く見かけなかったオクタヴィネル生の首根っこを捕まえ、フロイドの手に持っていた荷物を押しつける。
「えっ、ふ、フロイドさん?」
「これ、モストロ・ラウンジまで持ってっといて」
突然荷物を押しつけられたオクタヴィネル生は困惑しながらフロイドの名を呼ぶ。フロイドはそれに短く返事をするだけで、開いた手で今度はカリムを抱きかかえた。
「っ!? なんだ、どうしたんだ、フロイド」
「んー? ラッコちゃん、これからオレと遊びに行こー?」
「それは良いけど……このレースをアズールに渡してからじゃ駄目か?」
「だぁめ、それ使うから」
にんまり笑うフロイドは、さっさと裏庭へと向かう。棒のようになったと思っていた足はいつの間にか回復していて、その足取りは軽い。抱え上げられたカリムは頭上に疑問符を浮かべたような表情をしながら、上機嫌なフロイドにされるがままになるしかない。
ようやく着いた裏庭で、やっとカリムは降ろされる。人気が全くないそこで何をするんだとキョロキョロと辺りを見回すカリム。小動物のような動きにフロイドはまたにんまりと笑ってしまう。
「ラッコちゃん、そのレース貸して?」
「? おう、いいぞ」
これで遊ぶのか? とカリムはフロイドにチュールレースを渡す。受け取ったフロイドは、適当に畳まれていたそれを広げて、カリムの頭に被せた。それはまるで、麓の街で見た花嫁のベールのようにカリムを包んだ。
「わっ」
「オレねぇ、朝からアズールの命令で麓の街まで買い出しに行ってたんだよぉ。ウミウマくんとこで品切れしてたせいで」
「そうなのか? 麓の街って遠いだろ。それなのに偉いなフロイド!」
「もっと褒めてぇ」
レースを被ったまま、フロイドを褒めようと手を伸ばしてくるカリムに合わせるように屈んで、頭を撫でてもらう。ある程度撫でてもらったところで、「でさ」と本題に入る。
「麓の街で結婚式やってたんだよねぇ。たまたま見かけてさぁ」
「結婚式か! それはめでたいな!」
「他人の結婚式とか興味ねぇし途中で見んのやめて帰ってきたんだけど、良いこと思いついてさぁ」
良いこと? 首を傾げるカリムにフロイドは「そうそう」と頷く。
「結婚しようよ、ラッコちゃん」
「結婚」
「そう、結婚。なに、オレと結婚すんのいや?」
ぽかんとフロイドを見つめていたカリムは、フロイドの言葉を数秒掛けて理解し、そして考え込む。そんなカリムの姿に、フロイドは少しむっとする。
そこは即答で結婚したい、でしょ。そう言いたげに、レース越しにカリムの頬をつつく。するとカリムは少し困った顔をして、
「うーん、持参品はまだ用意してないぞ」
などと言った。どうやらフロイドとの結婚が嫌なわけではなく、準備ができていないから考え込んだようだった。フロイドは、あは、と楽しげに笑う。
「まだ学生だから本物は無理だけどぉ、結婚式ごっこならいいでしょ」
「結婚式ごっこ? それならいいぞ!」
「やったぁ、やっぱラッコちゃんノリいいねぇ」
「で、どっち式でやるんだ? 熱砂の国か? それとも珊瑚の海の結婚式か?」
そう問うてくるカリムに、フロイドはハッとした。国が違えば結婚式の流れも違う。どっちにしようかと二人で悩んで、結局、フロイドが見たというこの地域の結婚式にしようということになった。カリムにレースを被せたのも、フロイドが見た結婚式を参考にしたものだったのだし。
二人でマジカメを取り出し、ここで行われる結婚式がどう行われるのか調べた。
「陸での結婚って指輪が必要なの? めんどいね」
「海にはないのか?」
「手びれがある人魚もいるからないね~」
「それもそうか。それにしても地域によってこんなに変わるなんて面白いなぁ」
カリムは楽しそうにマジカメの画面を覗き込む。相変わらずレースを被ったままだ。その姿は欲目だろうと街で見た花嫁以上に綺麗で、どこか儚さがあった。
マジカメをしまうと薄いレースのベールに包まれたカリムの腰を、フロイドはそっと抱き寄せた。そしてお互い見つめ合う。
ごっこ、なのに、なぜか緊張を覚えた。カリムの夕日よりも赤い瞳を見ると、柄にもなく心臓が高鳴った。
「なんだっけぇ、えーっとぉ。フロイド・リーチは病めるときも健やかなるときも、富めるときも貧しきときも、妻? 夫? であるカリム・アルアジームを愛し、敬い、慈しむことを誓います」
途中で詰まりながらもマジカメで調べた誓いの言葉を言い切る。次はカリムの番だと見下ろすと、カリムは目を大きく見開いて頬を赤くしていた。随分と照れているようだ。とても可愛い表情だが、なぜだろうと首を傾げる。
「ラッコちゃん?」
「い、いや、うん。オレも、オレもフロイド・リーチのこと、愛し、敬い、慈しむことを誓います!」
随分と飛ばされた誓いの言葉だったが、フロイドは嬉しくなった。腰から手を離し、カリムの顔を覆っていたレースを上げて、直接頬に触れる。誓いのキスのために。街で途中まで見たようにそっと、ただ触れるだけのキスをカリムの唇に落とす。
ふに、と柔らかい感触。その感触が好きで、むにむにと唇で十分なほど楽しんでからようやく離れた。
それにしても先ほどからカリムが照れ続けていることが気になる。唇を離れた後もレースの端を掴んでもじもじしている。
「どしたの、ラッコちゃん」
「ぅ……その、フロイドにカリムって呼ばれたのが、びっくりして」
耳まで赤くしてもごもごと口籠もるカリムに、そういえば誓いの言葉で「カリム」と呼んだことに気付く。普段は「ラッコちゃん」としか呼んでいないからカリムは驚いてしまったのか。そう思うと、カリムが可愛くて仕方なくなる。
耳元に口を寄せて、今度は意識して「カリム」と呼ぶ。するとますます顔が赤くなって、顔どころか耳まで赤くなった。
「フロイド! からかってるんだろ! 分かってるんだからな!」
「えぇ~、これくらいで照れちゃうラッコちゃん可愛いんだもぉん」
真っ赤になって怒るカリムに、フロイドはにやにやと笑いながらいつから呼び方をカリムに変えようかと考えた。畳む
    
フロカリ / 求愛行動(カリム視点)

 好きな人ができた。他の誰にも抱いたことのない、特別に好きな人が。

 カリムには「好き」なものがたくさんある。家族や友人、宴にココナッツジュース、歌に踊りに魔法の絨毯。他にも切りがないほど挙げられる。
 そのどれもこれもが同じような熱量で好きだった。その中でも、一等特別な「好き」が出来たのだ。
 彼を見つけると自然と嬉しくなって、できるだけ傍にいたくなり、言葉を交わすことができたらそれだけで舞い上がってしまう程、気分が高揚する。彼がこっちを見てくれないと、ほんの少しだけ、寂しさを覚えたりもする。
 最初はこの現象はなんなのか分からず、自分の従者であるジャミルに相談したところ、嫌そうな顔をされながら「ただの風邪だ」と言い切られた。
 確かに、風邪をひいたときのように顔が熱くなったり、心臓が早鐘を打ったりすることもあるけれど、風邪ではないとカリムは思った。
 だから移動授業のときにたまたま出会った監督生にこの症状はなんだろうと相談したのだ。
 その結果、カリムの特定の相手にだけ起こる状態異常は、世間一般で言われる「恋」であるということが判明したのだ。
 カリム・アルアジームは彼――フロイド・リーチに恋をしている。
 そう言われたときは目から鱗が落ちた気分だった。まさか己が恋をするだなんて。
 しかし同時に納得する。フロイドは自由で、気分屋で、振り回されることもよくあるけれど、とても優しい人間……否、人魚である。
 とても優しい、というところに異議を申し立てる人々がいるのを知っているが、少なくともカリムにとってフロイドはとても優しい存在だ。
 飾らない言動は人によってはナイフのように感じるのかもしれないが、カリムにとってはハッとさせられることが多い。
 それに、フロイドはアジーム家の長子としてのカリムではなく、どこにでもいる普通の同年代の少年として、ただのカリムとして扱ってくれる。
 それがどれだけ嬉しいか、フロイドは分かっていないだろうが、カリムはよくよく知っている。
 さて、では恋する相手ができたらまずは何をするべきだろうか? カリムはいつだって好きな相手には素直に「好きだ」と伝えるが、特別な相手にはそれだけでは足りないだろう。
 倉庫にある宝石をあげるか? でもきっと、それではフロイドは喜ばないだろう。アズールだったら喜んでくれそうだけれども。
 フロイドのための宴を開いてみるか? 一瞬だけ良い案だと思ったけれど、宴の途中でフロイドが飽きてしまうかもしれない。フロイドのための宴でフロイドが飽きてしまったら悲しい。
 そうやって放課後の軽音部で悩んでいると、リリアとケイトがどうかしたのかと聞いてきた。
 これ幸いとばかりにカリムは二人に相談する。
 好きな人ができたこと、その人に想いを伝えるにはどうすればいいか、自分ではどうすればいいかわからないから知恵を貸してほしいこと。
 リリアとケイトはカリムに好きな人ができたことに驚いたが、すぐにどうやって想いを伝えるべきか一緒に考えてくれた。
「回りくどいことをせずに好きだと言ってみてはどうじゃ?」
「いつも言ってるけど、多分伝わってない」
「ああ、カリムくん素直だからね〜。相手には友達としての好きとしか思ってないんじゃないかな?」
 素直なところはカリムの美点だ。だが、素直すぎてそれが裏目に出ることもある。直接好きだと言っても伝わらないならどうしたらいい?
「ならば、手作りのものでも渡してみてはどうじゃ?」
「おっ、リリアちゃんそれ名案! カリムくんが心を込めて作った料理なら相手も自分勝手特別なんだって気づいてくれるんじゃない?」
 ぱちん、とウィンクをするケイトに、カリムはなるほど、と思った。
 カリムは自分で料理を作ったことがない。そんな己が手作りのものを渡せば、カリムにとって特別な相手だと気付いてくれるかもしれない。

 それならば善は急げだと今にも食堂のキッチンを借りに飛び出そうとしたカリムを、ケイトは慌てて引き止めた。
「カリムくん、何作るか決めてるの?」
「決めてないな! けど、何とかなるんじゃないか?」
 何時ものように根拠のない自信に満ち溢れているカリムに、ケイトは待ったをかける。
「こういうのはちゃんと決めてからじゃないとダメだよ。失敗したらジャミルくんに怒られるでしょ?」
「うっ、そうだな……」
 鬼の形相で怒る従者の顔を思い出してカリムは踏みとどまる。
 では、どうすれば良いだろう? そんな考えが顔に出ていたのか、ケイトがまた提案をしてくれる。
「お菓子でも作ってみたらどうかな、あれなら包丁も火も使わないし、トレイに教えてもらえば失敗しないだろうし。ね?」
「ふむ、レシピならわしが用意しても良いぞ?」
「あははー……、リリアちゃんのレシピはまた今度ね」
 ケーキ屋の息子で菓子作りが得意なトレイについていてもらえば、確かに失敗することはないだろう。
 早速、ケイトがトレイに連絡をとってくれた。トレイはカリムの話を聞くと、快く菓子作りを教えてくれることを快諾してくれた。
「簡単なクッキーを作ってみよう。それなら失敗することもないんじゃないか?」
 失敗の前にあまり、という言葉は伏せて、トレイはカリムに提案した。そもそも何をどのように作ればいいのかわからないカリムはそれに同意する。
 言われたようにしっかりと材料の分量を計り、ときにこれを入れたら美味しくなるんじゃないかと暴走しかけるのを止められて完成したクッキーは、形は歪だし色もあまり良くないけれど、カリムの初めて作ったものとしては上等な物ができた。
 味見をして、これなら大丈夫と御墨を付きをもらって、嬉々揚々とラッピングする。これを受け取っったフロイドがどんな反応をするか、想像するだけで楽しい。こうやって自分で作ったものを誰かにあげるのは初めてだった。

「形とか変だけど美味しいじゃん」
 翌日、早速フロイドに手作りのクッキーを渡してみたら、目の前で食べてくれて感想まで言ってくれた。あまりの嬉しさに踊りだしそうになってしまうが、ぐっと堪える。手作りお菓子作戦は成功したのだ。
 しかしフロイドの反応はそれだけで、頑張ったねぇと頭を撫でてくれたがそれで終わってしまった。
 これは気持ちが伝わっていないと鈍感なカリムでもわかる。一回だけでは駄目か、と、カリムは度々、トレイからもらったレシピをもとにクッキーを作ってはフロイドに渡してみた。ときにお茶を供してみたり、そのときにフロイドのことが好きだと伝えたが、それでも伝わっていないようだった。
 こうなってしまったらどうすればいいのかわからない。うんうんと唸っているところに、ジェイドが通りかかる。珍しく悩んでいるカリムに興味が湧いたのか、ジェイドは「どうしたのですか」と声をかけてきてくれた。
 そこでカリムは、自分がフロイドを特別な意味で好きだということをジェイドに話した。するとジェイドは少し驚いたような表情を見せてて、そのあとにんまりと笑う。その笑顔にどんな意味があるのかわからなかったが、とにかく双子のジェイドならば、フロイドに想いを伝えるにはどうすればいいか教えてくれるだろう。
「僕たちウツボの人魚の間では、口を大きく開けて見せるのが求愛行動になります。まぁ、威嚇ともとられることもありますが、カリムさんでしたらフロイドはそんなふうには捉えないでしょう」
 予想通り、ジェイドは人魚の間での求愛行動について教えてくれた。嬉しさでジェイドに感謝を告げれば、ジェイドはただただ楽しそうに笑い、「うまくいくといいですね」と言ってくれた。

 朝、学校までフロイドと一緒に行きたいと鏡舎でフロイドを待っていると、眠たそうなフロイドがオクタヴィネルに続く鏡から出てきた。
 逸る気持ちを抑えて、「おはよう」と挨拶を告げた後、カリムは思い切ってぐわりと口を開いた。するとフロイドは慌ててカリムの開いた口を抑えた。もしかしたら威嚇だと思われてしまったのだろうか。それはまずいとカリムは考える。
 求愛行動だと聞いていたが、人魚でもない自分がやっても意味がなかったのかもしれない。やはりここは陸のルールに則って、カリムはここ最近、何度も伝えてることをフロイドに伝えた。
「やっぱ言葉で伝えないと駄目だよな! 好きだぜ、フロイド!」
 そう言うと、フロイドは力が抜けたように座り込んでしまった。どうしたんだ、具合でも悪いのかと心配するカリムもフロイドに視線を合わせるようにしゃがみ込むと、フロイドが抱きついてきた。
 首元に顔を埋められ、頬がカッと熱くなる。こんなにフロイドと近づいたのは初めてだったから。
 すると、どこか弱々しい声でフロイドが訴えてくる。
「ラッコちゃんさぁ、ほんと……ほんとさぁ、そういうとこだからね……」
「そういうとこ……?」
 どういうとこだ?と思っていると、フロイドの顔が近づいてきて、薄い唇がカリムのそこと重ねられたのだった。畳む
    
フロカリ / 首筋

 その褐色の肌に噛みつきたいと思った。

 夕日が差す教室で、一人の青年が腕を枕にしてうつ伏せに眠っていた。
 真珠のように美しい色の髪と、褐色の肌。今は見えないが、閉じられた瞼の下には宝石よりも美しい赤い瞳がある。
 そんな青年――カリム・アルアジームの隣に、もう一人、男がいた。
 ターコイズブルーの髪に、異なる色合いの双眸。カリムとは正反対の白い肌の男はフロイド・リーチと言う。
 フロイドがカリムを見つけたのはたまたまだった。
 授業がすべて終わり、部活へと行く気になれなかった彼は、寮へと戻ろうとしていた途中で教室にノートを忘れていたことを思い出した。
 別に取りに行くのは明日にしても良かったが、なんとなく取りに戻る気分になったフロイドが教室の扉を開いたら、気持ち良さそうに眠っているカリムを見つけたのだ。
 カリムは気分屋のフロイドにしては珍しく気に入っている人間の一人だ。
 最初は起こしてやろうと近づいたのだが、不意に目に入った、白いカーディガンから覗くカリムの項を見たとき、フロイドはカリムを起こすのをやめた。
 無防備に眠るカリムの首筋を見て、なぜかそこに噛みつきたいと思ってしまったからだ。
 別に噛み付いて、噛みちぎってやりたいというわけではない。甘く噛んで痕を残したいと思ったのだ。
 なぜ突然そんなことを思ったのか、フロイド自身にもわからない。とかく、カリムを起こそうという気がなくなってしまったのだ。
 そうして、じっと眠るカリムを見つめている。何度か手が眠るカリムの首筋に伸びたが、そのたびにフロイドは伸ばしかけた手を引っ込めた。
 どうして噛みつきたいなどと思ってしまったのだろうと考える。別に空腹なわけではないし、人間なんて食べても美味しくないだろう。
 特にカリムはその生まれ故に数年前まで毒を頻繁に盛られていたらしく、もしも食べてみたところで食あたりでも起こしそうだ。
 勝手にそんな品定めをされているとは思ってもいない……そもそもフロイドの存在に気づかずに眠ったままのカリムは、静かに呼吸に合わせて肩を上下させる。
 起きる気配は今のところない。フロイドがこのままカリムを放って行ったら夜になっても目が覚めなさそうな程、深く眠っている。
 そういえば、とフロイドは思考する。こうしてカリムと二人でいるのに、こんなに静かなのは珍しい。
 起きているときのカリムはいつだって元気いっぱいで、フロイドと一緒にいれば歌ったり踊ったりと、とにかく明るく笑顔が絶えない。
 こうしてただ二人で並んでいるだけ、というのは一切なかった。そもそもカリムは眠っているのだから、当然のことなのだけれど。
 眠るカリムはあまりにも静かだった。上下する肩を見なければ本当に眠っているのか疑ってしまうほどに静かだ。
「……ラッコちゃん」
 フロイドは自分がつけたあだ名でカリムを呼ぶ。その声は眠る人間を起こす気がないと分かるほど小さく、当然カリムからの返事はない。
「ラッコちゃん」
 今度は先程よりも大きな声で呼んだ。それでも眠っている人間を起こす程の音ではない。この程度では反応がないのはわかっているのに、なぜかフロイドは少しだけ苛立った。
 起こす気がないのに、眠る人間の反応がないことに苛立つなんてあまりにも理不尽だ。それくらいわかっていたが、それでもなぜかフロイドは腹の奥がもやもやするような気持ちになった。
「ラッコちゃん」
 いつも彼を呼ぶときと同じ声で呼ぶ。浅い眠りだったらカリムは起きていたかもしれないが、あいにくと彼は深く深く眠っている。だから当然返事はない。――そのはずだった。
「……ん……フロイド……」
 名を呼ばれてフロイドは驚く。カリムはいまだ眠ったままだ。先程のは寝言だったのだろう。
 それなのにバクバクとフロイドの心臓は早鐘を打ちだして、耳元のすぐそばで心臓が鳴っているように鼓動が聞こえた。
 ……なんだこれ、なんだ、これは。
 胸元を抑えて、頭の中が真っ白になる。落ち着けと自身に言い聞かせるが、それでも心臓がどくんどくんと血を送る音が体中に響く。
 ふと、カリムから反らしていた視線をまたカリムへと戻したとき。褐色の首筋が、再びフロイドの目の映った。

「んん……?」
「あは、ラッコちゃん起きた〜?」
 周囲がすっかりと暗くなったとき。漸くカリムは目を覚ました。
 ここがどこかわからないのか、まだ意識がはっきりしてないのか。ぼんやりとした瞳でカリムはフロイドを見つめる。
 何度かぱちぱちと瞬きをすると、カリムの瞳に光が戻る。
「あれ……フロイド……? なんでここにいるんだ?」
「ラッコちゃん、ここが教室だってわかって言ってる?」
「え?」
 自室だと勘違いしているらしいカリムに、ここがどこだか教えてやる。カリムはきょろきょろと周囲を見渡して、教室で寝ていたことにやっと気づいたらしく、慌てた。その様子にフロイドは声を上げて笑った。
「ふ、フロイド! なんで起こしてくれなかったんだ?!」
「んー? だってラッコちゃん、気持ちよさそ―に寝てたから」
「そうなのか? そんなの、気にしなくて良かったのに」
 ジャミルに怒られる、と顔を青くするカリムに、フロイドはまた大きな声で笑った。
 それから、一緒に謝ってあげると言い、カリムを立たせてその背中を押す。カリムはしょんぼりと肩を落として、フロイドにごめんと謝った。
 どちらかと言うと、眠っていたカリムに気づいていながら起こさなかったフロイドが悪いのに。
 それでも彼の従者に叱られることに巻き込ませてしまってごめんと言うカリムに、フロイドは「そうやって謝るのうざぁ〜い」と軽いノリで返した。


 とぼとぼと歩くカリムの項に、うっすらと残る歯型を見下ろして、フロイドはにんまりと笑うのだった。畳む
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